・・・智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。 それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人で乗った。 護・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・お前は夕べから、ちっとも眠っていないじゃないか。」「あたし、どうしても眠れないの。あたし、今日は苦しくなければ、うんとお饒舌したいんだけど。」「いや、もう黙っているがいい、俺はここについていてやるから、眼だけでも瞑っていれば休まるだ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・この間も朝起きてみたら、机の上にむつかしい計算がいっぱい書いてあるので、下宿の婆さんにこれだれが書いたんだと訊いたら、あなたが夕べ書いてたじゃありませんかというんです。僕はちっとも知らないんですがね。」「じゃ、気狂い扱いにされるでしょう・・・ 横光利一 「微笑」
・・・菊地慎太郎は行く春の桜の花がチラと散る夕べ、亡父の墓を前にして、なつかしき母の胸より短刀のひらめきを見た。氷のごときその光は一瞬も菊地君の頭から離れぬ。やがてこの光が恩賜の時計の光となった。この美しい情は「愛」の上にたつ人の身の霊的興奮であ・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫