・・・うたう翁も久しくこの声を聞かざりき。夕凪の海面をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋を描きつつ消えゆくとぞみえし。波紋は渚を打てり。山彦はかすかに応えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより醒めて山のかなたより今の我を呼・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・いつもならば夕凪の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。 浜辺に焚火をしているのが見える。・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・夕方この地方には名物の夕凪の時刻に門内の広い空地の真中へ縁台のようなものを据えてそこで夕飯を食った。その時宅から持って行った葡萄酒やベルモットを試みに女中の親父に飲ませたら、こんな珍しい酒は生れて始めてだと云ってたいそう喜んだが、しかしよほ・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・また瀬戸内海の沿岸では一体に雨が少なかったり、また夏になると夕方風がすっかり凪いでしまって大変に蒸暑いいわゆる夕凪が名物になっております。これらはこの地方が北と南に山と陸地を控えているために起る事で、気象学者の研究問題になります。しかし、こ・・・ 寺田寅彦 「瀬戸内海の潮と潮流」
夕凪は郷里高知の名物の一つである。しかしこの名物は実は他国にも方々にあって、特に瀬戸内海沿岸にこれが著しいようである。そうして国々で○○の夕凪、□□の夕凪といって他の名物を自慢するように自慢にしているらしい。普通は特有な好・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
・・・蝉の声が、向いの家の糸車の音と同じように、絶間なく聞える。夕凪の日には、日が暮れてから暑くて内にいにくい。さすがの石田も湯帷子に着更えてぶらぶらと出掛ける。初のうちは小倉の町を知ろうと思って、ぐるぐる廻った。南の方は馬借から北方の果まで、北・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫