・・・「天祐じゃないか、君の天祐はあてにならない事夥しいよ」「なにこれが天祐さ」と圭さんが云い了らぬうちに、雨を捲いて颯とおろす一陣の風が、碌さんの麦藁帽を遠慮なく、吹き込めて、五六間先まで飛ばして行く。眼に余る青草は、風を受けて一度に向・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・一週間、全一週間、そのために寝たっきり呻いていた、足の傷の上にこの体を載せて、歩いたので、患部に夥しい充血を招いたのに違いなかった。 ――どこにいるんだか、生きているんだか死んでるんだか知らないが、親たちが此態を見たら―― と、私は・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・そして、こんな心持で文学上の製作に従事するから捗のゆかんこと夥しい。とても原稿料なぞじゃ私一身すら持耐えられん。況や家道は日に傾いて、心細い位置に落ちてゆく。老人共は始終愁眉を開いた例が無い。其他種々の苦痛がある。苦痛と云うのは畢竟金のない・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・等、実に夥しい言葉かずと気くばりをしているのに、あの機械的な、ありがとうございます、の連発を聞いて、快い人が果して何人あるでしょう。 会社はどうしても一人に一度のありがとうございますを与えたいというのならば、ステップを降りるときバネで「・・・ 宮本百合子 「ありがとうございます」
・・・永年の戦争で、夥しい男子を家庭から失っている日本の姿がここに示されていたわけである。 婦人の参政権が認められてから、総選挙まで、私たちは幾度、日本の婦人は政治に無関心だという批評をきいて来ただろう。また、何度、どうせ棄権さ、という言葉を・・・ 宮本百合子 「一票の教訓」
・・・恐らく徳川幕府の時代から、駒込村の一廓で、代々夏の夜をなき明したに違いない夥しい馬追いも、もうあの杉の梢をこぼれる露はすえない事になった。 種々の変遷の間、昔の裏の苺畑の話につれ、白と云う名は時々私共の口に上った。 けれども、以来犬・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ 参詣人の大群は、日和下駄をはき、真新しい白綿ネルの腰巻きをはためかせ、従順にかたまって動いているが、あの夥しい顔、顔が一つも目に入らず、黄色や牡丹色の徽章ばっかりが灰色の上に浮立ち動いているのは、どうしたものだろう。数が多すぎるばかり・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・海はここの下で入江になって居て、巖壁に穿たれた夥しい生簀の水に、淡い月の光と大洋の濤が暗く響いて来た。 裏手の障子をあけるとそこも直ぐ巖であった。その巖に葛の花が上の崖から垂れて居た。葛の花は終夜、砂地に立つ電燈の光を受けた。〔一九・・・ 宮本百合子 「黒い驢馬と白い山羊」
・・・しかし、最近の十数年間に、夥しい社会の波瀾にたえながら、少女から成熟した女性へと生きて来た今日の若い婦人たちが、そういう主婦たちと同じような心で、自分たちの行使すべき権利について考えていると思えば、それは一つの大きい謬りであると思う。 ・・・ 宮本百合子 「現実に立って」
・・・ 五百八十余万人の失業者、そのほかにかくされて深刻な社会問題となっている夥しい女子失業者は、同じく第二十五条「国民は総て勤労の権利を有す」という条項を、ただ書かれた文字として読んでいるだけではない。 日本の真の民主化のために、なお封・・・ 宮本百合子 「現実の必要」
出典:青空文庫