・・・長屋の人たちはこの処を大久保長屋、また湯灌場大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬の背新道と呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背に譬えたので。歩き馴れぬものはきまって足駄の横鼻緒を切ってしまった。維新前・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ ○ 雪もよいの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒い山鳩の来た日を思出すのである。 父は既に世を去って、母とわたくしと二人ぎり広い家にいた頃である。母は霜柱の昼過までも解けない寂しい冬の庭に、折・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・特に高崎郡領一揆と大久保利通にその例を見る維新の封建地主勢力の庇護のもとにあった志士団と革命的農民との敵対関係へ、われわれの注意を向けている点は見落すことのできないことである。 明治維新を「その被圧迫階級の立場から描くことこそマルクス・・・・ 宮本百合子 「文学に関する感想」
・・・出てみたら弟の家内で、いそがしいところ呼び立てて御免なさいね、百合ちゃん、四谷旭町――旭は九に日をのせた旭ね、そこの大久保ってところ知っていて? と訊くのであった。さア、大久保――何なの? すると、きっとわきに六つの甥がいでもするのだろう。・・・ 宮本百合子 「まちがい」
・・・ 明治の政府になってから五年目に安場保和の建案を発端とし、大久保利通の内地の開発事業の一つの典型として、福島県でも猪苗代湖から疏水をこしらえて、これまでは鎌戦さのあった草地へ田を作る仕事に着手した。 さまざまの政治的変動の余波を蒙っ・・・ 宮本百合子 「村の三代」
・・・ 酒井忠実は月番老中大久保加賀守忠真と三奉行とに届済の上で、二月二十六日附を以て、宇平、りよ、九郎右衛門の三人に宛てた、大目附連署の証文を渡して、敵討を許した。「早々本意を達し可立帰、若又敵人死候はば、慥なる証拠を以可申立」と云う沙・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫