・・・ 私が来た十九の時でした、城北大学といえば今では天下を三分してその一を保つとでも言いそうな勢いで、校舎も立派になり、その周囲の田も畑もいつしか町にまでなってしまいましたがいわゆる、「あの時分」です、それこそ今のおかたには想像にも及ばぬこ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・そして耳のそばで呼吸の気合がする。天下何人か縮み上がらざらんやだ。君のような神経の少し遅鈍の方なら知らないこと――失敬失敬――僕はもう呼吸が塞がりそうになって、目がぐらぐらして来た。これが三十分も続いたら僕は気絶したろう。ところが間もなく、・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・かくて政権は確実に北条氏の掌中に帰し、天下一人のこれに抗議する者なく、四民もまたこれにならされて疑う者なき有様であった。後世の史家頼山陽のごときは、「北条氏の事我れ之を云ふに忍びず」と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・寒霞渓がいゝとか「天下の名勝」だとか云って宣伝するのも、主に儲けをする彼等である。百姓には、寒霞渓が、なに美しくあるものか! 「天下の名勝」もへちまもあったものじゃない。彼等は年百年中働くばかりである。食う物を作りながら、常に食うや食わずの・・・ 黒島伝治 「小豆島」
・・・秀吉の智謀威力で天下は大分明るくなり安らかになった。東山以来の積勢で茶事は非常に盛んになった。茶道にも機運というものでがなあろう、英霊底の漢子が段に出て来た。松永弾正でも織田信長でも、風流もなきにあらず、余裕もあった人であるから、皆茶讌を喜・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ なるほど、天下多数の人は、死を恐怖しているようである。しかし、彼らとても、死のまぬがれぬのを知らぬのではない。死をさけられるだろうとも思っていない。おそらくは、彼らのなかに一人でも、永遠の命はおろか、大隈伯のように、百二十五歳まで生き・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・に砂浴びせられたる一旦の拍子ぬけその砂肚に入ってたちまちやけの虫と化し前年より父が預かる株式会社に通い給金なり余禄なりなかなかの収入ありしもことごとくこのあたりの溝へ放棄り経綸と申すが多寡が糸扁いずれ天下は綱渡りのことまるまる遊んだところが・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ こうなると、何と言っても広瀬さんの天下だ。そこは新七と、広瀬さんと、お力夫婦の寄合世帯で、互いに力を持寄っての食堂で、誰が主人でもなければ、誰が使われるものでもなかった。唯、実力あるものが支配した。そういう広瀬さんも、以前小竹の家に身・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ただもう、やたらに天下国家ばかり論じて、そうして私を叱るのです。」「そんな事はあるまい。」先生は落ちついている。「てれているんだろう。大隅君は、うれしい時に限って、不機嫌な顔をする男なんだ。悪い癖だが、無くて七癖というから、まあ大目に見・・・ 太宰治 「佳日」
・・・鉄球をころがしているお客も、見物している人達も、番をしている商人も一処になって時々笑い出す。天下泰平の趣がある。ヨーヨーの緊張時代のあとにコリントゲームの弛緩時代がめぐって来たものと見える。 三原山投身者もこの頃減ったそうである。・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
出典:青空文庫