・・・ 保吉 達雄は音楽の天才です。ロオランの書いたジャン・クリストフとワッセルマンの書いたダニエル・ノオトハフトとを一丸にしたような天才です。が、まだ貧乏だったり何かするために誰にも認められていないのですがね。これは僕の友人の音楽家をモデル・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・「じゃ僕は失敬するよ。」「ああ、じゃ失敬。」 彼はちょっと頷いた後、わざとらしく気軽につけ加えた。「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時で善いから。」「どんな本を?」「天才の伝記か何かが善い。」「じゃジァン・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・名は今ちょっといえないが私どもの仲間に一人、ずぬけてえらい天才がいる。油でもコンテでも全然抜群で美校の校長も、黒馬会の白島先生も藤田先生も、およそ先生と名のつく先生は、彼の作品を見たものは一人残らず、ただ驚嘆するばかりで、ぜひ展覧会に出品し・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・人によりて強弱あり、大小はあるが、この慾望の最も熾んな者はすなわち天才である。天才とは畢竟創造力の意にほかならぬ。世界の歴史はようするに、この自主創造の猛烈な個人的慾望の、変化極りなき消長を語るものであるのだ。嘘と思うなら、かりにいっさいの・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・とか「天才」とか、そのころの青年をわけもなく酔わしめた揮発性の言葉が、いつの間にか私を酔わしめなくなった。恋の醒めぎわのような空虚の感が、自分で自分を考える時はもちろん、詩作上の先輩に逢い、もしくはその人たちの作を読む時にも、始終私を離れな・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・と云う迄である、予が殊に茶の湯を挙たのは、茶の湯が善美な歴史を持って居るのと、生活に直接で家庭的で、人間に尤も普遍的な食事を基礎として居る点が、最も社会と調和し易いからである、他の品位ある多くの芸術は天才的個人的に偏して、衆と共にするという・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・九 椿岳の人物――狷介不羈なる半面 椿岳の出身した川越の内田家には如何なる天才の血が流れていたかは知らぬが、長兄の伊藤八兵衛は末路は余り振わなかったが、一度は天下の伊藤八兵衛と鳴らした巨富を作ったし、弟の椿岳は天下を愚弄した・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・警句は天才の最も得意とする武器であって、オスカー・ワイルドもメーターランクも人気の半ばは警句の力である。蘇峰も漱石も芥川龍之介も頗る巧妙な警句の製造家である。が、緑雨のスッキリした骨と皮の身体つき、ギロリとした眼つき、絶間ない唇辺の薄笑い、・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・また、その時代により、生活の意識も、理想も異なるものです。この世の中が、一人の英雄によって左右されると考えられた時代には、誰しも、英雄に対する讃美を惜しまなかったこともあります。また、天才が、時代に超越すると考えられた時代もありました。その・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・いやしくも、それ等の芸術に依拠して、真の美感を与えよく芸術の使命を果すものありとすれば、それは、たしかに天才の仕事でなければならぬ。私達は、かゝる芸術の存在理由をも、効果をも疑うものでないが、芸術は、創造であり、個的でなければならぬところに・・・ 小川未明 「純情主義を想う」
出典:青空文庫