・・・省作の胸中は失意も憂愁もないのだけれど、周囲からやみ雲にそれがあるように取り扱われて、何となし世間と隔てられてしまった。それでわれ知らず日蔭者のように、七、八日奥座敷を出ずにいる。家の人たちも省作の心は判然とはわからないが、もう働いたらよか・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・書直スヒマガアリマセヌ、ナゼソンナニアワテルカトオ思召シマショウガ、ソレハ明後日アタリノ新聞広告ニ出マス件ト、妹ノ方ノ件ト二ツノ急要ガアルタメデス、オユルシ下サイ 五日正午 緑雨の失意の悶々がこの冷静を粧った手紙の文面に・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・流浪者が失意に泣くのは、深く人間を悟った時である。人間はみないろ/\の形に於て、悩み苦しみ求めている。それは、曾て、抽象的に考えられたような、真実や、美は、そのまゝ何処にも存在するものでないと知ったがためである。 流浪者程、自然をいつく・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・ 私の席の下の方に、知らない人たちの間に挟まって、今さらのように失意な淋しい気持で、坐っていた。やがて佐々木は、発起人を代表して、皆なの拍手に迎えられて、起ちあがった。それはかなり正直な、明快な、挨拶ぶりであった。「……いったいに笹・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 不平と猜忌と高慢とがその眼に怪しい光を与えて、我慢と失意とが、その口辺に漂う冷笑の底に戦っていた。自分はかれが投げだしたように笑うのを見るたびに泣きたく思った。『国会がどうした? ばかをいえ。百姓どもが集まって来たって何事をしでか・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・ 信仰を求める誠さえ失わないならば、どんなに足を踏みすべらし、過ちを犯し、失意に陥り、貧苦と罪穢とに沈淪しようとも、必ず仏のみ舟の中での出来ごとであって、それらはみな不滅の生命――涅槃に達する真信打発の機縁となり得るのである。その他のも・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・と、古聖賢の道を究めた筈の魚容も失意の憂愁に堪えかね、今夜はこの湖で死ぬる覚悟。やがて夜になると、輪郭の滲んだ満月が中空に浮び、洞庭湖はただ白く茫として空と水の境が無く、岸の平沙は昼のように明るく柳の枝は湖水の靄を含んで重く垂れ、遠くに見え・・・ 太宰治 「竹青」
・・・そして私の失意や希望や意志とは全く無関係に歳末と正月が近づきやがて過ぎ去った。そうして私は世俗で云う厄年の境界線から外へ踏み出した事になったのである。 日本では昔から四十歳になると、すぐに老人の仲間には入れられないまでも、少なくも老人の・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・薩長の士族に随従することを屑しとしなかったものは、悉く失意の淵に沈んだ。失意の人々の中には董狐の筆を振って縲紲の辱に会うものもあり、また淵明の態度を学んで、東籬に菊を見る道を求めたものもあった。わたくしが人より教えられざるに、夙く学生のころ・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・これに対して失意の憾みの生ずべき筈はない。コールタを流したような真黒な溝の水に沿い、外囲いの間の小径に進入ると、さすがに若葉の下陰青々として苔の色も鮮かに、漂いくる野薔薇の花の香に虻のむらがり鳴く声が耳立って聞える。小径の片側には園内の地を・・・ 永井荷風 「百花園」
出典:青空文庫