・・・「一奮発、向うへ廻ろうか。その道は、修善寺の裏山へ抜けられる。」 一廻り斜に見上げた、尾花を分けて、稲の真日南へ――スッと低く飛んだ、赤蜻蛉を、挿にして、小さな女の児が、――また二人。「まあ、おんなじような、いつかの鼓草のと……・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・なあに起きりゃなおると、省作は自分で自分をしかるようにひとり言いって、大いに奮発して起きようとするが起きられない。またしばらく額を枕へ当てたまま打つ伏せになってもがいている。 全く省作は非常にくたぶれているのだ。昨日の稲刈りでは、女たち・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・それでは、社会に活動しようとする男子の心を十分に占領するだけの手段または奮発がないではないか? 僕は僕の妻を半身不随の動物としか思えないのだ。いッそ、吉弥を妾にして、女優問題などは断念してしまおうかと思って見た。 そうだ、そうだ。今の僕・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・但馬さんもしきりに引越すようにすすめて、こんなアパートに居るのでは、世の中の信用も如何と思われるし、だいいち画の値段が、いつまでも上りません、一つ奮発して大きい家を、お借りなさい、と、いやな秘策をさずけ、あなたまで、そりゃあそうだ、こんなア・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・日頃、同僚から軽蔑され、親兄弟に心配を掛け、女房、恋人にまで信用されず、よろしい、それならば乃公も、奮発しよう、むかしバイロンという人は、一朝めざめたら其の名が世に高くなっていたとかいうではないか、やってみよう、というような経緯は、誰にだっ・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・よし、ここは、一奮発して、大いなる声名を得なければならぬ」と決意して、まず女房を一つ殴って家を飛び出し、満々たる自信を以て郷試に応じたが、如何にせん永い貧乏暮しのために腹中に力無く、しどろもどろの答案しか書けなかったので、見事に落第。とぼと・・・ 太宰治 「竹青」
・・・も、うんと手伝わせてもらおうと思っているのに、そのお手伝いも迷惑、ただもう、ごくつぶし扱いにして相談にも何も乗ってくれないし、仕事がないからよけいも無い貯金をおろして、お手伝いも出来ぬひけめから、少し奮発してお礼に差出すと、それがまた気にい・・・ 太宰治 「やんぬる哉」
・・・沓掛駅に近い湯川の上流に沿うた谷あいの星野温泉に前後二回合わせて二週間ばかりを全く日常生活の煩いから免れて閑静に暮らしたのが、健康にも精神にも目に見えてよい効果があったように思われるので、ことしの夏も奮発して出かけて行った。 去年と同じ・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ネクタイがあまり古ぼけたので一つ奮発しようと思って物色しても、あのたくさんな商品の中にこれをと思って手の出るのはまれである。これは自分の趣味嗜好が時代に遅れたという事実を証明する以外になんらの意味もない些事ではあろうが、この一些事はやはりち・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 四、五日たってから、ある朝奮発して早起きして、電車が通い始めると絵具箱を提げて出かけた。何年ぶりかで久し振りに割引電車の赤い切符を手にした時に、それが自分の健康の回復を意味するシンボルのような気がした。御堀端にかかった時に、桃色の曙光・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫