・・・かの三通はげに貴嬢が読むを好みたまわぬも理ぞかし、これを認めしわれ、心乱れて手もふるいければ。されどわれすでにこの三通にて厭き足りぬと思いたまわば誤りなり。今はわれ貴嬢に願うべき時となりぬ。貴嬢はわが願いを入れ、忍びて事の成り行きを見ざるべ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ある夕、雨降り風起ちて磯打つ波音もやや荒きに、独りを好みて言葉すくなき教師もさすがにもの淋しく、二階なる一室を下りて主人夫婦が足投げだして涼みいし縁先に来たりぬ。夫婦は燈つけんともせず薄暗き中に団扇もて蚊やりつつ語れり、教師を見て、珍らしや・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・青年たちがどんな娘を好み娘たちがどんな青年を欲するかは実に次のゼネレーションの質と力と色とを動かすのだ。 そこで青年男女には、人類の健康と進歩性とを私たちが信じることができるような好み方、選び方をしてもらいたいものだ。 ところで今日・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・何事かを好み、傾くということがそのことへの愛と練達との基礎だからである。「この一技につながる」という決意は人間的にも肝要なものである。またそれとともに、職能というものは真摯にラディカルに従事して行けば、必ず人生哲学的な根本問題に接触してくる・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・女の子供は、少し大きくなると着物に好みが出来てくる。一ツ身や、四ツ身を着ている頃はまだいゝ。しかし四ツ身から本身に変る時には、拵えてやっても、拵えてやってもなお子供は要求する。彼女達は絶えず生長しているのである。生長するに従って、その眼も、・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・うまくやるもので、浮世絵好みの意気な姿です。それで吉が今身体を妙にひねってシャッとかける、身のむきを元に返して、ヒョッと見るというと、丁度昨日と同じ位の暗さになっている時、東の方に昨日と同じように葭のようなものがヒョイヒョイと見える。オヤ、・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 焼けない前の小竹の奥座敷を思出しながら今の部屋を見ると、江戸好みの涼しそうな団扇一本お三輪の眼には見当らなかった。あれも焼いてしまった、これも焼いてしまったと、惜しい着物のことなぞがつぎつぎにお三輪の胸に浮んで来る。彼女はまたよくそれ・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・駄作だの傑作だの凡作だのというのは、後の人が各々の好みできめる事です。作家が後もどりして、その評定に参加している図は、奇妙なものです。作家は、平気で歩いて居ればいいのです。五十年、六十年、死ぬるまで歩いていなければならぬ。「傑作」を、せめて・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・文人風や遠州好みの床飾りもやはりそうである。庭作りもまたそれである。かしこの山ここの川から選り集めた名園の一石一木の排置をだれが自由に一寸でも動かしうるかを考えてみればよい。しかもこれらのいっさいを一束にしても天秤は俳諧連句のほうへ下がるで・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖茶色のコートを襲ねたりすると、実直な商人としか・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫