・・・その肖像画は彼が例のナポレオン一世の代りに、書斎の壁へ懸けて置きましたから、私も後に見ましたが、何でも束髪に結った勝美婦人が毛金の繍のある黒の模様で、薔薇の花束を手にしながら、姿見の前に立っている所を、横顔に描いたものでした。が、それは見る・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・次の室の姿見へ、年増が代って坐りました。――感心、娘が、こん度は円髷、――あの手がらの水色は涼しい。ぽう、ぽっぽ――髷の鬢を撫でつけますよ。女同士のああした処は、しおらしいものですわね。酷いめに逢うのも知らないで。……ぽう、ぽっぽ――可哀相・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の裾が、大なる紺青の姿見を抱いて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い上じょうろうが、瑠璃の皎殿を繞り、碧橋を渡って、風に舞うようにも視められた。 この時、煩悩も、菩提もない。ちょうど汀の・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 雪のような女が居て、姿見に真蒼な顔が映った。 温泉の宿の真夜中である。 二 客は、なまじ自分の他に、離室に老人夫婦ばかりと聞いただけに、廊下でいきなり、女の顔の白鷺に擦違ったように吃驚した。 が、雪・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 風すかしに細く開いた琴柱窓の一つから、森を離れて、松の樹の姿のいい、赤土山の峰が見えて、色が秋の日に白いのに、向越の山の根に、きらきらと一面の姿見の光るのは、遠い湖の一部である。此方の麓に薄もみじした中腹を弛く繞って、巳の字の形に一つ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 違い棚の傍に、十畳のその辰巳に据えた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山茶花の悄れたかと思う、濡れたように、しっとりと身についた藍鼠の縞小紋に、朱鷺色と白のいち松のくっきりした伊達巻で乳の下の縊れるばかり、消えそうな弱腰に、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・傘を拡げて大きく肩にかけたのが、伊達に行届いた姿見よがしに、大薩摩で押して行くと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも好いものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、忙しそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・僕の坐ったうしろの方に、広い間が一つあって、そこに大きな姿見が据えてある。お君さんがその前に立って、しきりに姿を気にしていた。畳一枚ほどに切れている細長い囲炉裡には、この暑いのに、燃木が四、五本もくべてあって、天井から雁木で釣るした鉄瓶がぐ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・あの早稲田の学生であって、子規や僕らの俳友の藤野古白は姿見橋――太田道灌の山吹の里の近所の――あたりの素人屋にいた。僕の馬場下の家とは近いものだから、おりおりやってきて熱烈な議論をやった。あの男は君も知っているだろう。精神錯乱で自殺してしま・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・箱の上に尺四方ばかりの姿見があってその左りに「カルルス」泉の瓶が立ている。その横から茶色のきたない皮の手袋が半分見える。箱の左側の下に靴が二足、赤と黒だ、並んでいる。毎日穿くのは戸の前に下女が磨いておいて行く。そのほかに礼服用の光る靴が戸棚・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
出典:青空文庫