・・・彼は内心冷ひやしながら、捜すように捜さないようにあたりの人々を見まわしていた。 するとたちまち彼の目は、悠々とこちらへ歩いて来るお嬢さんの姿を発見した。彼は宿命を迎えるように、まっ直に歩みをつづけて行った。二人は見る見る接近した。十歩、・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 自由意志と宿命と 兎に角宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺を免れるから・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・こうなれば宿命と思うほかはない。保吉はとうとう観念した。いや、観念したばかりではない。この頃は大浦を見つけるが早いか、響尾蛇に狙われた兎のように、こちらから帽さえとっていたのである。 それが今聞けば盗人のために、海へ投げこまれたと云うの・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・こうなるとお敏も絶体絶命ですから、今までは何事も宿命と覚悟をきめていたのが、万一新蔵の身の上に、取り返しのつかない事でも起っては大変と、とうとう男に一部始終を打ち明ける気になったのです。が、それも新蔵が委細を聞いた後になって、そう云う恐しい・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・そして人生というものを宿命的のものに強いて見ようとつとめた。「芸術は革命的精神に醗酵す」という宣言の下に生れた芸術とは、全く選を異にする。一つは、太平時代の産物であり、装飾であり、娯楽であり、後者は、闘争的精神から生れた叫びである。純然・・・ 小川未明 「芸術は革命的精神に醗酵す」
・・・ 貧富の相違はもとより、自からの力によって、いまだ全く生活することのできない彼等は、土地、両親、境遇、そして性質等によって、見るもの、聞くものをすら異にし、しかも彼等は宿命に甘んじて、その裡に各の幸福を見出さんとしつゝあるのでありま・・・ 小川未明 「新童話論」
・・・この一句には坂田でなければ言えないという個性的な影像があり、そして坂田という人の一生を宿命的に象徴しているともいえよう。苦労を掛けた糟糠の妻は「阿呆な将棋をさしなはんなや」という言葉を遺言にして死に、娘は男を作って駈落ちし、そして、一生一代・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ けれども、その一四歩がさきの九四歩同様再び坂田の敗因となってみると、もう坂田の自信も宿命的な灰色にうらぶれてしまった。人びとは「こんど指す時は真中の歩を突くだろう」と嘲笑的な蔭口をきいた。坂田の棋力は初段ぐらいだろうなどと乱暴な悪口も・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・文学者としての宿命を感じさせるような者もいないし魅力も乏しい。文学者として世に立っても、型が小さすぎる。やはり泣かない世代はだめなのだろうか。泣かない世代には泣かない悲しみの文学がありそうなものだが、しかし少数の泣かない文学も目下のところ泣・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・この浪費の上に私の文学が成り立っている――というこの事情も、はじめは私の任意の一点であったのだが、いまではもはや私の宿命点みたいになってしまった。私はモトの掛った小説などはじめは軽蔑していたのだが、今では小説を書くのに、自分の人生や生命を浪・・・ 織田作之助 「私の文学」
出典:青空文庫