・・・「え、それは霊岸島の宿屋ですが……こうと、明日は午前何だから……阿母さん、明日夕方か、それとも明後日のお午過ぎには私が向うへ行きますからね、何とか返事を聞いて、帰りにお宅へ廻りましょう」 四 金之助の泊っているの・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 今から最早十数年前、その俳優が、地方を巡業して、加賀の金沢市で暫時逗留して、其地で芝居をうっていたことがあった、その時にその俳優が泊っていた宿屋に、その時十九になる娘があったが、何時しかその俳優と娘との間には、浅からぬ関係を生じたので・・・ 小山内薫 「因果」
・・・それにしても、この客引きのいる宿屋は随分さびれて、今夜もあぶれていたに違いあるまいと思った。あとでこの温泉には宿屋はたった一軒しかないことを知った。 右肩下りの背中のあとについて、谷ぞいの小径を歩きだした。 しかし、ものの二十間も行・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・がしかしそれも、脱ぎ棄てた宿屋の褞袍がいつしか自分自身の身体をそのなかに髣髴させて来る作用とわずかもちがったことはないではないか。あの無感覚な屋根瓦や窓硝子をこうしてじっと見ていると、俺はだんだん通行人のような心になって来る。あの無感覚な外・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・といって正作は立ちかけたので「イヤ飯なら僕は宿屋へ帰って食うから心配しないほうがいいよ」「まアそんなことをいわないでいっしょに食いたまえな。そして今夜はここへ泊りたまえ。まだ話がたくさん残っておる」 僕もその意に従がい、二人して・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・海の中へつき出た巌の上に立っている宿屋では、夏の客をむかえるとて、ボートをおろしている。 この島は周囲三十里余の島だが、そこに四国八十八カ所になぞらえた島四国八十八カ所の霊場がある。山の洞窟や、部落のなかや、原に八十八の寺や、庵があるの・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・ 憫むべし晩成先生、嚢中自有レ銭という身分ではないから、随分切詰めた懐でもって、物価の高くない地方、贅沢気味のない宿屋を渡りあるいて、また機会や因縁があれば、客を愛する豪家や心置ない山寺なぞをも手頼って、遂に福島県宮城県も出抜けて奥州の・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・私は愛宕下のある宿屋にいた。二部屋あるその宿屋の離れ座敷を借り切って、太郎と次郎の二人だけをそこから学校へ通わせた。食事のたびには宿の女中がチャブ台などを提げながら、母屋の台所のほうから長い廊下づたいに、私たちの部屋までしたくをしに来てくれ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・――その代り宿屋なんぞのないということははじめから承知の上なんでしたけれど、さあ、船から上ってそこらの家へ頼んでみると、はたしてみんな断ってしまうでしょう。困ったんですよ」 婦人は微笑む。「それでしかたがないもんだから、とうとのこの・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・三人の友人と、佐吉さんと、私と五人、古奈でも一番いい方の宿屋に落ちつき、いろいろ飲んだり、食べたり、友人達も大いに満足の様子で、あくる日東京へ、有難う、有難うと朗らかに言って帰って行きました。宿屋の勘定も佐吉さんの口利きで特別に安くして貰い・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫