・・・ スイスあたりの山のホテルを想わせるような帝国ホテルは外側から観賞しただけで梓川の小橋を渡り対岸の温泉ホテルという宿屋に泊った。新築別館の二階の一室に落ちついた頃は小雨が一時止んで空が少し明るくなった。 窓際の籐椅子に腰かけて、正面・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・お絹たちは京阪地方へも、たいてい遊びに行っていて、名所や宿屋や劇場のことなぞも知っていた。最近では去年大阪にいる子息のところへしばらく行っていたので、その嫁の姻戚でまた主人筋になっている人につれられて、方々連れて歩かれた。「それじゃ辰之・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・Henri Bordeaux という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準え、何時にても直様出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・日本中どこの宿屋へ泊っても朝、梅干を出さない所はない。まじないが利かなければ、こんなに一般の習慣となる訳がないと云って得意に梅干を食わせるんだからな」「なるほどそれは一理あるよ、すべての習慣は皆相応の功力があるので維持せらるるのだから、・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・(一寸おたずねいたしますが、この辺に宿屋 浴衣を着た髪の白い老人であった。その着こなしも風采も恩給でもとっている古い役人という風だった。蕗を泉に浸していたのだ。(青金の鉱山できいて来たのですが、何でも鉱山の人たちなども泊・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・信州の宿屋の一こま、産婆のいかがわしい生活の一こま、各部は相当のところまで深くつかまれているけれども、場面から場面への移りを、内部からずーと押し動かしてゆく流れの力と幅とが足りないため、移ったときの或るぎこちなさが印象されるのである。 ・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・そこで宿屋の主人の世話で、九郎右衛門は按摩になり、文吉は淡島の神主になった。按摩になったのは、柔術の心得があるから、按摩の出来ぬ筈はないと云うのであった。淡島の神主と云うのは、神社で神に仕えるものではない。胸に小さい宮を懸けて、それに紅で縫・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・発明は夜中にするらしくて、大きな音を立てるものだから、どこの下宿屋からも抛り出されましてね。今度の下宿には娘がいるから、今度だけは良さそうだ、なんて云ってました。学位論文も通ったらしいです。」「じゃ、二十一歳の博士か。そんな若い博士は初・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 谷川君が案内してくれたのは、伏見の橋のそばの宿屋であった。もう夜も遅いし、明朝は三時に起きるというのでその夜はあまり話もせずに寝た。 寝たと思うとすぐに起こされたような感じで、朝はひどく眠かったが、宿の前から小舟に乗って淀川を漕ぎ・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫