・・・ もし誰かがカントを引ぱり出して寄席の高座から彼のクリティクを講演させたとしたらどうであったろう。それは少しも可笑しくはないかもしれない、非常に結構な事ではあろうが、しかしそれがカントに気の毒なような気のするだけは確かである。 私は・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・お参りに出かける外、芝居へも寄席へも一向に行きたがらない。朝寝が好きで、髪を直すに時間を惜しまず、男を相手に卑陋な冗談をいって夜ふかしをするのが好きであるが、その割には世帯持がよく、借金のいい訳がなかなか巧い。年は二十五、六、この社会の女に・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・抽斎の子は飛蝶と名乗り寄席の高座に上って身振声色をつかい、また大川に舟を浮べて影絵芝居を演じた。わたしは朝寝坊夢楽という落語家の弟子となり夢之助と名乗って前座をつとめ、毎月師匠の持席の変るごとに、引幕を萌黄の大風呂敷に包んで背負って歩いた。・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾風の大丸髷に寄席芸人とも見える角袖コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付の袷に半纏を重ねた遣手婆のような・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ 私は妙な性質で、寄席興行その他娯楽を目的とする場所へ行って坐っていると、その間に一種荒涼な感じが起るんです。左右前後の綺羅が頭の中へ反映して、心理学にいわゆる反照聯想を起すためかとも思いますが、全くそうでもないらしいです。あんな場所で・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・律と云うものが無かったならば、――彼らのうちには今日は頭が痛いから休むというものもできようし、朝の七時からは厭だからおれは午後から出るとわがままを云うものもできようし、あるいは今日は少し早く切り上げて寄席へ行くとか、あるいは今日は朝出がけに・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・一方には、日本の全人口からみれば少い一部の文学好きの人々、教養の深い人々のために、純文学作品の発表・出版があり、一方では、より多くの大衆が、労働から解放されたときの気まぎらしのため、昔の庶民が寄席をたのしんだように、ごろりと寝ころがってすご・・・ 宮本百合子 「商売は道によってかしこし」
・・・今は活動写真館になっている牛込館がまだ寄席であったらしい。そこに入った。高座の上で支那人が水芸をするのを見物した。小学校の記念日に大神楽がきっと来た時代だ。支那人のする水芸そのものは、黒紋付に袴の股立ちをとった大神楽のやることと大して違いは・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・その頃まで寄席に出る怪談師が、明りを消してから、客の間を持ち廻って見せることになっていた、出来合の幽霊である。百物語のアヴァン・グウはこんな物かと、稍馬鹿にせられたような気がして、僕は引き返した。 玄関に上がる時に見ると、上がってすぐ突・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・勉強を強うる教師は学生の自負と悦楽を奪略するものである。寄席にあるべき時間に字書をさし付けらるるは「自己」を侮辱されたと認めてよい。かくして朝寝に耽り学校を牢獄と見る。「自己」を救うために学校を飛び出す。友は騒ぎ母は泣く。保証人はまっかにな・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫