・・・奉天から北京へ来る途中、寝台車の南京虫に螫された時のほかはいつも微笑を浮かべている。しかももう今は南京虫に二度と螫される心配はない。それは××胡同の社宅の居間に蝙蝠印の除虫菊が二缶、ちゃんと具えつけてあるからである。 わたしは半三郎の家・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・と同時に見慣れた寝室は、月明りに交った薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。寝台、西洋せいようがや、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変ってい・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・母は二人ともよく寝たもんだというような事を、母らしい愛情に満ちた言葉でいって、何か衣裳らしいものを大椅子の上にそっくり置くと、忍び足に寝台に近よってしげしげと二人の寝姿を見守った。そして夜着をかけ添えて軽く二つ三つその上をたたいてから静かに・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・お前たちは母上を寝台の上に見つけると飛んでいってかじり付こうとした。結核症であるのをまだあかされていないお前たちの母上は、宝を抱きかかえるようにお前たちをその胸に集めようとした。私はいい加減にあしらってお前たちを寝台に近づけないようにしなけ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・その間に僕の左の腕が無うなっとった。寝台の上に仰向けになったまま、『おや腕が』と気付いたんやが、その時第一に僕の目に見えたんは大石軍曹の姿であった。この人をしかった上官にも見せてやりたかったんやが、『その場にのぞんで見て貰いましょ』と僕の心・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・それを見附けて、女の押丁が抱いて寝台の上に寝かした。その時女房の体が、着物だけの目方しかないのに驚いた。女房は小鳥が羽の生えたままで死ぬように、その着物を着たままで死んだのである。跡から取調べたり、周囲の人を訊問して見たりすると、女房は檻房・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 鍵の掛る、粗末なダブル寝台のある洋風の部屋だった。 女中は案内すると、すぐ出て行ったが、やがて、お茶と寝巻を持って来た。「お名前をこれに……」 小沢は自分の姓名を書いて渡そうとすると、「こちらさんのお名前もご一緒に……・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 石田はそのなかに一つの窓が、寝台を取り囲んで数人の人が立っている情景を解放しているのに眼が惹かれた。こんな晩に手術でもしているのだろうかと思った。しかしその人達はそれらしく動きまわる気配もなく依然として寝台のぐるりに凝立していた。・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・食堂車。寝台車。光と熱と歓語で充たされた列車。 激しい車輪の響きが彼の身体に戦慄を伝えた。それははじめ荒々しく彼をやっつけたが、遂には得体の知れない感情を呼び起こした。涙が流れ出た。 響きは遂に消えてしまった。そのままの普段着で両親・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・ 一時間ばかり椅子でボンヤリしているうちに、伍長と、も一人の上等兵とは、兵舎で私の私物箱から背嚢、寝台、藁布団などを悉く引っくりかえして、くまなく調べていた。そればかりでなく、ほかの看護卒の、私物箱や、財布をも寝台の上に出させ、中に這入・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫