・・・階上にはベランダを廻らした二室があって、その一は父の書斎、一つは寝室であるが、そのいずれからも坐ながらにして、海のような黄浦江の両岸が一目に見渡される。父はわたくしに裏手の一室を与えて滞留中の居間にさせられた。この室にはベランダはなかったが・・・ 永井荷風 「十九の秋」
西暦一千九百二年秋忘月忘日白旗を寝室の窓に翻えして下宿の婆さんに降を乞うや否や、婆さんは二十貫目の体躯を三階の天辺まで運び上げにかかる、運び上げるというべきを上げにかかると申すは手間のかかるを形容せんためなり、階段を上るこ・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 人数に比べて部屋の数が多過ぎるので、寄宿舎は階上を自習室にあて、階下を寝室にあててあった。どちらも二十畳ほど敷ける木造西洋風に造ってあって、二人では、少々淋しすぎた。が、深谷も安岡も、それを口に出して訴えるのには血気盛んに過ぎた。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・この時死は寝室の扉の傍、舞台の前の方、右手に立ちおり、主人は左手壁の方、薄暗き処に立ちおる。右手の扉を開きて主人の母出で来る。更けたりという程にはあらず。長き黒き天鵞絨の上着を着し、顔の周囲に白きレエスを付けたる黒き天鵞絨の帽子を冠りおる。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 都合の悪いのは今朝に限って、寝室にいる彼に明るい夜の台所の模様がはっきり、手にとるように判ることであった。 今、彼女は流しの洗い桶に熱い湯をあけているだろう。ブラシュで面倒そうにくなくなと皿を洗い、小声で歌をうたいながら、側の台に・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 少年少女時代から一緒に種々様々な行動をして育つ外国の両性たちの間に、細かい礼儀のおきてがあって、たとえば女の子は決して自分の寝室に男の友達を入れないという慣習などは、建物の構造が日本とはちがっているという条件からばかりでなく、やはり一・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・さっきの三人の当番とわたし達、それに用のない子供がつながって二階へのぼり、「ここが女の子の寝室です」 ドアをあけられた室はカラリと広くて、日がさしている。窓のすぐそばに白樺の梢が見える。キチンと毛布でつつんだ寝台が四側に五つずつ並ん・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
発動機の工合がわるくて、台所へ水が出なくなった。父が、寝室へ入って老人らしい鳥打帽をかぶり、外へ出て行った。暖炉に火が燃え、鳩時計は細長い松ぼっくりのような分銅をきしませつつ時を刻んでいる。露台の硝子越しに見える松の並木、・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・彼女の部屋はチュイレリーの宮殿の中で、ナポレオンの寝室の隣りに設けられた。しかし、新しきナポレオン・ボナパルトは、またこの古い宮殿の寝室の中で、彼の厖大な田虫の輪郭と格闘を続けなければならなかった。 ナポレオンは若くして麗しいルイザを愛・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・寝床は妻の寝室と同じであるとしても、軽症者の静臥すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々として彼の視線を放さなかった。その海・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫