・・・声をかける前に、少時行一は姑を客観しながら歩いた。家人を往来で眺める珍しい心で。「なんてしょんぼりしているんだろう」 肩の表情は痛いたしかった。「お帰り」「あ。お帰り」姑はなにか呆けているような貌だった。「疲れてますね。・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・大丈夫私は気を附けるが、お徳さんも盗られそうなものは少時でも戸外に放棄って置かんようになさいよ」「私はまアそんなことは仕ない積りだが、それでも、ツイ忘れることが有るからね、お前さんも屑屋なんかに気を附けておくれよ。木戸から入るにゃ是非お・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 主人の顔は、少時、むずかしくなった。「今日限り、あいつにゃひまをやって呉れい!」「へえ、……としますと……貸越しになっとる分はどう致しましょうか?」「戻させるんだ。」「へえ、でも、あれは、一文も持っとりゃしません。」・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ 上野に着きて少時待つほどに二時となりて汽車は走り出でぬ。熱し熱しと人もいい我も喞つ。鴻巣上尾あたりは、暑気に倦めるあまりの夢心地に過ぎて、熊谷という駅夫の声に驚き下りぬ。ここは荒川近き賑わえる町なり。明日は牛頭天王の祭りとて、大通りに・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・自分は少時立って見送っていると、彼もまたふと振返ってこちらを見た。自分を見て、ちょっと首を低くして挨拶したが、その眉目は既に分明には見えなかった。五位鷺がギャアと夕空を鳴いて過ぎた。 その翌日も翌日も自分は同じ西袋へ出かけた。しかしどう・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・階段を上りつめてドアの前に少時佇む。その影法師が大きく映る、という場面が全篇の最頂点になるのであるが、この場面だけはせめてもう一級だけ上わ手の俳優にやらせたらといささか遺憾に思われたのであった。 テニス競技の場面の挿入は、物語としては主・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・点火したのをそこへ載せておくと少時すると自然に消えて主人が観覧を了えて再び出現するのを待つ、いわばシガーの供待部屋である。これが日本の美術館だったらどうであろう。這入るときに置いた吸いさしが、出るときにその持主の手に返る確率が少なくも一九一・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみと・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・これらの鳥の啼くのでも大概平均三声くらい啼いてから少時休むという場合が多いようである。偶然と云えば偶然かもしれないが、しかし何か生理的に必然な理由があるのかもしれない。 七月二十一日にいったん帰京した。昆虫の世界は覗く間がなかった。・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・船にいくじがなくて、胸に込み上げる不快の感覚をわずかにおさえつけて少時の眠りを求めようとしている耳元に、かの劣悪なレコードの発する奇怪な音響と騒がしい旋律とはかなりに迷惑なものの一つである。それが食堂で夜ふけまで長時間続いていた傍若無人の高・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
出典:青空文庫