一 襖を開けて、旅館の女中が、「旦那、」 と上調子の尻上りに云って、坐りもやらず莞爾と笑いかける。「用かい。」 とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しが・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・……どうかすると、雨が降過ぎても、 と云う一つ癖があったんです。尻上りに、うら悲しい……やむ事を得ません、得ませんけれども、悪い癖です。心得なければ不可ませんね。 幼い時聞いて、前後うろ覚えですが、私の故郷の昔話に、(椿農家のひ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・で、その尻上がりの「ですか」を饒舌って、時々じろじろと下目に見越すのが、田舎漢だと侮るなと言う態度の、それが明かに窓から見透く。郵便局員貴下、御心安かれ、受取人の立田織次も、同国の平民である。 さて、局の石段を下りると、広々とした四辻に・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・――俺はいきなり窓際にかけ寄ると、窓枠に両手をかけて力をこめ、ウンと一ふんばりして尻上りをした。そして鉄棒と鉄棒の間に顔を押しつけ、外へ向って叫んだ。「ロシア革命万歳」「日本共産党バンザアーイ」 ワァーッ! という声が何処かの―・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・と夜店の間々に雪が降っているので立ち寄るものはすくなかった。が二、三カ所人集りがあった。その輪のどれからか八木節の「アッア――ア――」と尻上りに勘高くひびく唄が太鼓といっしょに聞えてきた。乗合自動車がグジョグジョな雪をはね飛ばしていった。後・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ただこの尻上がりに発音した奇妙な言葉が強く耳の底に刻みつけられた。こんな些細な事でも自分の異国的情調を高めるに充分であった。 立派なシナ商人の邸宅が土人の茅屋と対照して何事かを思わせる。 椰子の林に野羊が遊んでいる所もあった。笹の垣・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・器械体操では、金棒に尻上がりもできないし、木馬はその半分のところまでも届かないほどの弱々しさであった。 安岡は、次から次へと深谷のことについて考えたが、どうしても、彼が恋人を持っているとは考えられなかった。それなら……盗癖でもあるのだろ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
出典:青空文庫