・・・かれは労して功なく精根を尽くしてしまった。かれの衰え行く様は明らかに見える。 今や諧謔の徒は周囲の人を喜ばすためにかれをして『糸くず』の物語をやってもらうようになった、ちょうど戦場に出た兵士に戦争談を所望すると同じ格で。あわれかれの心は・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸に添地を賜わったり、鷹狩の鶴を下されたり、ふだん慇懃を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤もである。 将軍家がこ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・人に見棄てられた家と、葉の落ち尽した木立のある、広い庭とへ、沈黙が抜足をして尋ねて来る。その時エルリングはまた昂然として頭を挙げて、あの小家の中の卓に靠っているのであろう。その肩の上には鴉が止まっている。この北国神話の中の神のような人物は、・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・いらっしゃれば大概二週間位は遊興をお尽しなさって、その間は、常に寂そりしてる市中が大そう賑になるんです。お帰りのあとはいつも火の消たようですが、この時の事は、村のものの一年中の話の種になって、あの時はドウであった、コウであったのと雑談が、始・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりです。他の者たちは、私からされるように望んでいる事を私が果たさない場合に、やはり私を不満足に思います。そうしてそれがその人たちのツマラないわがままから出ている場合でも、私を怨み憤・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫