・・・鮒は水の澄んだ中に悠々と尾鰭を動かしていた。「ああ、鮒が声をかけたんだ。」 僕はこう思って安心した。―― 僕の目を覚ました時にはもう軒先の葭簾の日除けは薄日の光を透かしていた。僕は洗面器を持って庭へ下り、裏の井戸ばたへ顔を洗いに・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・こうなると話にも尾鰭がついて、やれあすこの稚児にも竜が憑いて歌を詠んだの、やれここの巫女にも竜が現れて託宣をしたのと、まるでその猿沢の池の竜が今にもあの水の上へ、首でも出しそうな騒ぎでございます。いや、首までは出しも致しますまいが、その中に・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・……トこの奇異なる珍客を迎うるか、不可思議の獲ものに競うか、静なる池の面に、眠れる魚のごとく縦横に横わった、樹の枝々の影は、尾鰭を跳ねて、幾千ともなく、一時に皆揺動いた。 これに悚然とした状に、一度すぼめた袖を、はらはらと翼のごとく搏い・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・いや、庭が白いと、目に遮った時は、スッと窓を出たので、手足はいつか、尾鰭になり、我はぴちぴちと跳ねて、婦の姿は廂を横に、ふわふわと欄間の天人のように見えた。 白い森も、白い家も、目の下に、たちまちさっと……空高く、松本城の天守をすれすれ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・それから段々話し込んで、に尾鰭を付けて、賭をしているのだから、拳銃の打方を教えてくれと頼んだ。そして店の主人と一しょに、裏の陰気な中庭へ出た。その時女は、背後から拳銃を持って付いて来る主人と同じように、笑談らしく笑っているように努力した。・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・それから段々話し込んで、嘘に尾鰭を付けて、賭をしているのだから、拳銃の打方を教えてくれと頼んだ。そして店の主人と一しょに、裏の陰気な中庭へ出た。そのとき女は、背後から拳銃を持って付いて来る主人と同じように、笑談らしく笑っているように努力した・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・胸鰭をぴらぴらさせて水面へ浮んで来たかと思うと、つと尾鰭をつよく振って底深くもぐりこんだ。 水のなかの小えびを追っかけたり、岸辺の葦のしげみに隠れて見たり、岩角の苔をすすったりして遊んでいた。 それから鮒はじっとうごかなくなった。時・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・それはとにかくこの人の云う通り、自分なども五十年来書物から人間から自然からこそこそ盗み集めた種に少しばかり尾鰭をつけて全部自分で発明したか、母の胎内から持って生れて来たような顔をして書いているのは全くの事実なのである。 人から咎められな・・・ 寺田寅彦 「随筆難」
・・・或る箱の葭簀の下では支那らんちゅうの目の醒めるようなのが魁偉な尾鰭を重々しく動かしていた。葭簀を洩れた日光が余り深くない水にさす。異様に白く、或は金焔色に鱗片が燦めき、厚手に装飾的な感じがひろ子に支那の瑪瑙や玉の造花を連想させた。「なあ・・・ 宮本百合子 「高台寺」
出典:青空文庫