・・・が虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・ 暮色を帯びた町はずれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。そうし・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・されば立ち所に神罰を蒙って、瞬く暇に身を捨ちょうでの。おぬしには善い見せしめじゃ。聞かっしゃれ。」と云う声が、無数の蠅の羽音のように、四方から新蔵の耳を襲って来ました。その拍子に障子の外の竪川へ、誰とも知れず身を投げた、けたたましい水音が、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・が、それは瞬く暇で、後はただ風雨の中に、池をめぐった桜の花がまっ暗な空へ飛ぶのばかり見えたと申す事でございます――度を失った見物が右往左往に逃げ惑って、池にも劣らない人波を稲妻の下で打たせた事は、今更別にくだくだしく申し上るまでもございます・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ぎらぎらと瞬く無数の星は空の地を殊更ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせたりした。 七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなかった。縊り殺されそうな泣き声・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、紅の雫を挙げて、その並木の松の、就中、山より高い、二三尺水を出た幹を、ひらひらと昇って、声するばかり、水に咽んだ葉に隠れた。――瞬く間である。―― そこら、屋敷小路の、荒廃離落した低い崩土塀には・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・稲妻の瞬く間よ。 見物席の少年が二三人、足袋を空に、逆になると、膝までの裙を飜して仰向にされた少女がある。マッシュルームの類であろう。大人は、立構えをし、遁身になって、声を詰めた。 私も立とうとした。あの舞台の下は火になりはしないか・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ものの二三町は瞬く間だ。あたかもその距離の前途の右側に、真赤な人のなりがふらふらと立揚った。天象、地気、草木、この時に当って、人事に属する、赤いものと言えば、読者は直ちに田舎娘の姨見舞か、酌婦の道行振を瞳に描かるるであろう。いや、いや、そう・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・――飛ぶのは早い、裏邸の大枇杷の樹までさしわたし五十間ばかりを瞬く間もない。――(この枇杷の樹が、馴染の一家族の塒なので、前通りの五本ばかりの桜の樹(有島にも一群――時に、女中がいけぞんざいに、取込む時引外したままの掛棹が、斜違いに落ちてい・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・頬張るあとから、取っては食い、掴んでは食うほどに、あなた、だんだん腹這いにぐにゃぐにゃと首を伸ばして、ずるずると鰯の山を吸込むと、五斛、十斛、瞬く間に、満ちみちた鰯が消えて、浜の小雨は貝殻をたたいて、暗い月が砂に映ったのです。と仰向けに起き・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
出典:青空文庫