・・・のを、所謂「ために」ならなくても、味わなければ、何処に私たちの生きている証拠があるのだろう。おいしいものは、味わなければいけない。味うべきである。しかし、いままでの所謂「老大家」の差し出す料理に、何一つ私は、おいしいと感じなかった。 こ・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・タンポポの花一輪の贈りものでも、決して恥じずに差し出すのが、最も勇気ある、男らしい態度であると信じます。僕は、もう逃げません。僕は、あなたを愛しています。毎日、毎日、歌をつくってお送りします。それから、毎日、毎日、あなたのお庭の塀のそとで、・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」 聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・小使銭を支給されたその日に、勝治はぬっと節子に右手を差し出す。節子は、うなずいて、兄の大きい掌に自分の十円紙幣を載せてやる。それだけで手を引込める事もあるが、なおも黙って手を差し出したままでいる事もある。節子は一瞬泣きべそに似た表情をするが・・・ 太宰治 「花火」
・・・若い男のお客さんにお茶を差出す時なんか、緊張のあまり、君たちの言葉を遣えば、つまり、意識過剰という奴をやらかして、お茶碗をひっくり返したりする実に可愛い娘さんがいるものだが、あんなのが、まあ女性の手本と言ってよい。男は何かというと、これは、・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・野中教師、右手を差し出す。ぴしゃと小さい音が聞えるほど強く菊代はその野中の掌を撃つ。(嘲笑ああ、きざだ。思いちがいしないでね。間が抜けて見えるわよ。あたしは何でも知っている。みんな知っている。そんな事をおっしゃっても・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・わせてもらおうと思っているのに、そのお手伝いも迷惑、ただもう、ごくつぶし扱いにして相談にも何も乗ってくれないし、仕事がないからよけいも無い貯金をおろして、お手伝いも出来ぬひけめから、少し奮発してお礼に差出すと、それがまた気にいらないらしく、・・・ 太宰治 「やんぬる哉」
・・・何ぞと言葉を和らげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば梨子二つ。有難しとボーイに礼は云うて早速頂戴するに半分ばかりにして胸つかえたれば勿体なけれど残りは窓から外へ投げ出してまた横になれば室内ようやく暗く人々の苦に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・後にはただ弔詞を包紙に包んだままで柩の前に差し出すのも沢山にあった。 いったい弔詞というものは、あれは誰にアドレッスされたものだろう。死んだ人を目当てにしたものか、遺族ないしは会葬者に対して読まれるものだろうか、それとも死者に呼びかける・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・と、そこへ差出すと、爺さんは一度辞退してから、戴いて腹掛へ仕舞いこんだ。「お爺さんはいつも元気すね。」「なに、もう駄目でさ。今日もこの歯が一本ぐらぐらになってね、棕櫚縄を咬えるもんだから、稼業だから為方がないようなもんだけれど……。・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫