・・・そして家へ帰る路すがら、自分もいつかお父さんや、お母さんに別れなければならぬ日があるのであろうと思いました。四 あいかわらず、その後も、町の方からは聞き慣れたよい音色が聞こえてきました。乳色の天の川が、ほのぼのと夢のように空・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・ ここから故郷へは二百里近くもある。帰るに旅費はなし、留まるには宿もない。止むなくんば道々乞食をして帰るのだが、こうなってもさすがにまだ私は、人の門に立って三厘五厘の合力を仰ぐまでの決心はできなかった。見えか何か知らぬがやっぱり恥しい。・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 七歳の夏、帰ることになりました。さすがの父も里子の私を不憫に思ったのでしょう。しかし、その時いた八尾の田舎まで迎えに来てくれたのは、父でなく、三味線引きのおきみ婆さんだった。 高津神社の裏門をくぐると、すぐ梅ノ木橋という橋があ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・尤も許しさえしたら、何も角も抛て置いてさっさと帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは能く尽す。 颯と朝風が吹通ると、山査子がざわ立って、寝惚た鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのと白みかかって、やわらかい羽毛を散ら・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・「……で甚だ恐縮な訳ですが、妻も留守のことで、それも三四日中には屹度帰ることになって居るのですから、どうかこの十五日まで御猶予願いたいものですが、……」「出来ませんな、断じて出来るこっちゃありません!」 斯う呶鳴るように云った三・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と言って女は帰る仕度をはじめた。「あんたも帰るのやろ」「うむ」 喬は寝ながら、女がこちらを向いて、着物を着ておるのを見ていた。見ながら彼は「さ、どうだ。これだ」と自分で確めていた。それはこんな気持であった。――平常自分が女、女、・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・今しも届きたる二三の新聞を読み終りて、辰弥は浴室にと宿の浴衣に着更え、広き母屋の廊下に立ち出でたる向うより、湯気の渦巻く濡手拭に、玉を延べたる首筋を拭いながら、階段のもとへと行違いに帰る人あり。乙女なり。かの人ぞと辰弥は早くも目をつけぬ。思・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 午後三時ごろ、学校から帰ると、私の部屋に三人、友だちが集まっています、その一人は同室に机を並べている木村という無口な九州の青年、他の二人は同じこの家に下宿している青年で、政治科および法律科にいる血気の連中でした。私を見るや、政治科の鷹・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・大衆に失望して山に帰る聖賢の清く、淋しき諦観が彼にもあったのだ。絶叫し、論争し、折伏する闘いの人日蓮をみて、彼を奥ゆかしき、寂しさと諦めとを知らぬ粗剛の性格と思うならあやまりである。 鎌倉幕府の要路者は日蓮への畏怖と、敬愛の情とをようや・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・しかし、そこが二階であることは、彼は、はっきり分っていた。帰るには、階段をおりて、暗い廊下を通らなければならなかった。そこを逃げ出して行く。両側の扉から憲兵が、素早く手を突き出して、掴まえるだろう。彼は、外界から、確然と距てられたところへ連・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫