・・・前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃流行る半コオトを幅広に着た、横肥りのした五十恰好。骨組の逞ましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目眇で、その眇の方をト上へ向けて渋のついた薄毛の円髷を斜向に、頤を引・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ と紺の鯉口に、おなじ幅広の前掛けした、痩せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀らしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖際に畏まった。「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」「いえ、当家の料理人にござ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・鼻は大にして高く、しかも幅広に膨れたり。その尖は少しく曲み、赤く色着きて艶あり。鼻の筋通りたれば、額より口の辺まで、顔は一面の鼻にして、痩せたる頬は無きが如く、もし掌を以て鼻を蔽えば、乞食僧の顔は隠れ去るなり。人ありて遠くより渠を望む時は、・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・腰衣のような幅広の前掛したのが、泥絵具だらけ、青や、紅や、そのまま転がったら、楽書の獅子になりそうで、牡丹をこってりと刷毛で彩る。緋も桃色に颯と流して、ぼかす手際が鮮彩です。それから鯉の滝登り。八橋一面の杜若は、風呂屋へ進上の祝だろう。そん・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・私は寝床の中から見ると薄暗くて顔は分らぬが、若い背の高い男で、裾の短い着物を着て、白い兵児帯を幅広に緊めているのが目に立つ。手に塗柄のついた馬乗提灯を下げて、その提灯に何やら書いてあるらしいが、火を消しているので分らなかった。その男はしばら・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・見たばかりでも恐ろしげに、幅広で鋭くとがったあの笹の葉は忘れ難い。私はまた、水に乏しいあの山の上で、遠いわが家の先祖ののこした古い井戸の水が太郎の家に活き返っていたことを思い出した。新しい木の香のする風呂桶に身を浸した時の楽しさを思い出した・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・この顔は初めは幅広く肥えていたのである。しかし肉はいつの間にか皮の下で消え失せてしまって、その上の皮ががっしりした顴骨と腮との周囲に厚い襞を拵えて垂れている。老人は隠しの中の貨幣を勘定しながら、絶えず唇を動かして独言を言って、青い目であちこ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 柄の短いわりに刃の長く幅広なのが芝刈り専用ので、もう一つのはおもに木の枝などを切るのだが芝も刈れない事はない。芝生の面積が広ければ前者でなくては追い付かないが、少しばかりならあとのでもいい。素人の家庭用ならかえってこれがいいかもしれな・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ 若い方は洋服で、太い声は和服のきっと幅広の帯をしめて居る事が、声で想像されるのである。 しばらくすると、端唄や都々逸らしいものを唄い出して、それも一人や二人ならまだしも、その十人位が一時にやり出すのだから聾になりそうになる。 ・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・その幅広な視線で、元気な石女の丸まっちい女房を見下しながら、「それは分っているさ……だがね」「だがね、どうなのさ……」「……ふむ!」「いやだよこの人ったら……」 女房は、やがて、「でもいい装をしてなすったねえ」と・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫