・・・何だか身体の具合が平常と違ってきて熱の出る時間も変り、痰も出ず、その上何処となく息苦しいと言いますから、早速かかりつけの医師を迎えました。その時、医師の言われるには、これは心臓嚢炎といって、心臓の外部の嚢に故障が出来たのですから、一週間も氷・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・この女の人は平常可愛い猫を飼っていて、私が行くと、抱いていた胸から、いつもそいつを放して寄来すのであるが、いつも私はそれに辟易するのである。抱きあげて見ると、その仔猫には、いつも微かな香料の匂いがしている。 夢のなかの彼女は、鏡の前で化・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・彼は平常歩いていた往来から教えられたはじめての路へ足を踏み入れたとき、いったいこんなところが自分の家の近所にあったのかと不思議な気がした。元来その辺はむやみに坂の多い、丘陵と谷とに富んだ地勢であった。町の高みには皇族や華族の邸に並んで、立派・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 戦時は艦内の生活万事が平常よりか寛かにしてあるが、この日はことに大目に見てあったからホールの騒ぎは一通りでない。例の椀大のブリキ製の杯、というよりか常は汁椀に使用されているやつで、グイグイあおりながら、ある者は月琴を取り出して俗歌の曲・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・元来この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常も昼間ばかり立ちのぼっているのである。 然るに八時は先刻打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・云々と書き得たことが如何にこの夫婦の平常の愛の結合の純熱であったかを思いやられて感動を禁じ得ない。また清元の十六夜清心には「蓮の浮き葉の一寸いと恍れ、浮いた心ぢやござんせぬ。弥陀を契ひに彼の世まで……結びし縁の数珠の緒を」という一ふしがある・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・七分三分、あるいは六分四分に米麦を混合して常食としている農民は、平常から栄養摂取を十分にやっているわけだが、一年中食うだけの麦を持っている者も、組合から配給される平麦を買って、持っている麦があまるならそれは玄麦で売れというのである。誰れにも・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・彼等は、政友会か、民政党か、その何れかを──している。平常でも政治の話をやりだすと、飯もほしくないくらいだ。浜口雄幸がどうしたとか、若槻が何だとか、田中は陸軍大将で、おおかた元帥になろうとしていたところをやめて政治家になったとか、自分たちに・・・ 黒島伝治 「選挙漫談」
・・・或る一人が他の一人を窘めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引をよく調べる男でしたが、文字の成立まで調べて置いて、そして敵が講じ了るのを待ち兼ねて、難問の箭を放ちました。何様も十分調べて置いてシツッコク文字論をするので講者は大・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・是非も無い、簡素な晩食は平常の通りに済まされたが、主人の様子は平常の通りでは無かった。激しているのでも無く、怖れているのでも無いらしい。が、何かと談話をしてその糸口を引出そうとしても、夫はうるさがるばかりであった。サア、まことの糟糠の妻たる・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫