・・・「なんですか。」平然と反問する。みじんも狼狽の影が無い。「どこへ売った。こんどだけは許す。」「ごちそうさん。」勝治は箸をぱちっと置いてお辞儀をした。立ち上って隣室へ行き、うたはトチチリチン、と歌った。父は顔色を変えて立ち上りかけ・・・ 太宰治 「花火」
・・・K氏は平然として「君等は杏仁水杏仁水と馬鹿にするが、杏仁水でも、人を殺そうと思えば殺せる」と云った。この場合では杏仁水が、陳腐なるものコンヴェンショナルなものの代表として現われたわけである。 自分の五十年の生涯の記録の索引を繰って杏仁水・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・突然お腹へ差込みが来るなどと大騒ぎをするかと思うと、納豆にお茶漬を三杯もかき込んで平然としている。お参りに出かける外、芝居へも寄席へも一向に行きたがらない。朝寝が好きで、髪を直すに時間を惜しまず、男を相手に卑陋な冗談をいって夜ふかしをするの・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・千代の方は一向平然としている丈、さほ子は神経質になった。 千代を傍観者として後片づけをしていると、良人は、さほ子に訊いた。「どうだね?」 気づかれのした彼女は、ぐったり腕椅子に靠れ込み、髪をなおしながら、余り快活でなく呟いた。・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・強烈な火の急流のようなアンナ、または男がいつも我流に女を愛して平然としていることその他、女性の家庭生活の不満に充分苦しみながら「でも、大半は婦人に敵対している社会で、一人で生活しなければならない女性の生活の恐ろしさ」の前にちぢんで、諦めの力・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・私は厭でも、大多数の女性が、彼女等の生命に無残な殺戮を加えて尚平然として居るのを見ます。けれども、其の原因をもう少し深く考えないでよろしいのでございましょうか? 教育者の或者は、自ら女性の為に叫ぶべき位置にありながら、利己的保守を致します。・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・トルストイは作家仲間と酒をのみ、ジプシーの歌をききながらも、ツルゲーネフがそれを疑わず、それによって苦しみもせず平然としているばかりか、或る点では尊崇さえしている資本主義ヨーロッパ文明そのものに、猛烈な懐疑をひき起された。その文明にある酷薄・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・ 如何なる罪悪も、善行も、地球は平然として、我胸の上で行わせて居る。 そして、亡びねばならぬ運命を作ったものは、地球が何の手も出さない内にさっさと亡びてしまう。 まことに面白い事だと思う。 その度量の広いと云う事が、我々の様・・・ 宮本百合子 「曇天」
四月十日を目の前にひかえて、私たち日本の婦人は、生れて初めて行う選挙というものに対して、平然としていられない気持になっている。婦人が政治に無関心ということは、二、三ヵ月前の事実であったかもしれない。しかし、今日ではもう違っ・・・ 宮本百合子 「婦人の一票」
・・・冷ややけき世人は前世の因と説き運命と解き平然として哀れなる労働者を見下す。惨酷である。咫尺を解かぬ暗夜にこれこそとすがりしこの綱のかく弱き者とは知らなかった。危うしと悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。彼らを危うしと見ながら悠々とエジプトの葉巻・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫