・・・というのが夫婦愛で、これは長い年月を経済生活、社会生活の線にそうて、助け合ってきた歴史から生まれたものである。 そして不思議なことには、この人は子どもも可愛がるが、生活欲望も非常に強い。妻らしく、母らしい婦人が必ずしも生活欲望が弱いとし・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・寝床に横たわると、十年くらいの年月が、急に飛び去ってしまえばいゝ、というようなことを希った。何もかも忘れてしまいたかった。反物を盗んで来た妻のことが気にかゝって仕方がなかった。これまで完全だった妻に、疵がついたようで、それが心にわだかまって・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・それから年月を経て、万暦の末年頃、淮安に杜九如というものがあった。これは商人で、大身上で、素敵な物を買出すので名を得ていた。千金を惜まずして奇玩をこれ購うので、董元宰の旧蔵の漢玉章、劉海日の旧蔵の商金鼎なんというものも、皆杜九如の手に落ちた・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・天下は広い、年月は際涯無い。しかし誰一人おれが今ここで談す話を虚言だとも真実だとも云い得る者があるものか、そうしてまたおれが苦しい思いをした事を善いとも悪いとも判断してくれるものが有るものか。ただ一人遺っていた太郎坊は二人の間の秘密をも悉し・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・かつ大きな人格の光を千載にはなち、偉大なる事業の沢を万人にこうむらすにいたるには、長年月を要することが多いのは、いうまでもない。 伊能忠敬は、五十歳から当時三十余歳の高橋作左衛門の門にはいって測量の学をおさめ、七十歳をこえて、日本全国の・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・して長寿を嫌って、無用・無益とするのではない、命あっての物種である、其生涯が満足な幸福な生涯ならば、無論長い程可いのである、且つ大なる人格の光を千載に放ち、偉大なる事業の沢を万人に被らすに至るには、長年月を要することが多いのは言う迄もない。・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・今度の養生は仮令半年も前からおげんが思い立っていたこととは言え、一切から離れ得るような機会を彼女に与えた――長い年月の間暮して見た屋根の下からも、十年も旦那の留守居をして孤りの閨を守り通したことのある奥座敷からも、養子夫婦をはじめ奉公人まで・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 長く東京で年月を送って来た高瀬には、塾の周囲だけでも眼に映るものが多かった。庭にある桜の花は開いて見ると八重で、花束のように密集ったやつが教室の窓に近く咲き乱れた。濃い花の影は休みの時間に散歩する教師等の顔にも映り、建物の白い壁に・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・大学生には困難の年月がはじまりかけていたのである。 その夜、歌舞伎座から、遁走して、まる一年ぶりのひさごやでお酒を呑みビールを呑みお酒を呑み、またビールを呑み、二十個ほどの五十銭銀貨を湯水の如くに消費した。三年まえに、ここではっきりと約・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ それきり、つるを見ない。年月を経るにしたがい、つるに就いての記憶も薄れて、私が高等学校にはいったとし、夏休みに帰郷して、つるが死んだことを家のひとたちから聞かされたけれど、別段、泣きもしなかった。つるの亭主は、甲州の甲斐絹問屋の番頭で・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
出典:青空文庫