・・・ 斯うやって彼等は親の務めを兎に角済ませたから、スバーの親達には此世の幸福と天国の安らかさが、真個に与えられると云うのでしょうか。花婿の仕事は西の方にあったので、結婚して間もなく、彼は妻を其処へ連れて行きました。 然し、十日も経たないう・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・けれども幸福は、それをほのかに期待できるだけでも、それは幸福なのでございます。いまのこの世の中では、そう思わなければ、なりませぬ。老博士は、ビヤホールの廻転ドアから、くるりと排出され、よろめき、その都会の侘びしい旅雁の列に身を投じ、たちまち・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・それは不意に我身の上に授けられた、夢物語めいた幸福が、遠からず消え失せてしまって、跡には銀行のいてもいなくても好い小役人が残ると云うことである。少くも半年間は、いてもいなくても好いと云うことを、立派に上役から証明せられているのである。この恐・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ずっと後に従妹のエルゼ・アインシュタインを迎えて幸福な家庭を作っているという事である。 一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得てやっと公職に就く資格が出来た。同窓の友グロスマンの周旋で特許局の技師となって、そこに一九〇二・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ もちろん老夫婦と若夫婦は、ひととおりは幸福であった。桂三郎は実子より以上にも、兄たち夫婦に愛せられていた。兄には多少の不満もあったが、それは親の愛情から出た温かい深い配慮から出たものであった。義姉はというと、彼女は口を極めて桂三郎を賞・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 善ニョムさんは、幸福だった。馬小屋の横から一対の畚を持ってくると、馴れた手つきでそのツカミ肥料を、木鍬で掻い込んだ。「ドッコイショ――と」 天秤の下に肩を入れたが、三四日も寝ていたせいか、フラフラして腰がきれなかった。「く・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・如何に幸福な平和な冬籠の時節であったろう。気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中の空想から消去って、夜晩く行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹をゆする響に、伝通院の鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の・・・ 永井荷風 「狐」
・・・従来の徳育法及び現今とても教育上では好んで義務を果す敢為邁往の気象を奨励するようですがこれは道徳上の話で道徳上しかなくてはならぬもしくはしかする方が社会の幸福だと云うまでで、人間活力の示現を観察してその組織の経緯一つを司どる大事実から云えば・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・十全なる知識を有するかぎり、我々は有力である、幸福である。これは対象認識的たる科学的知識とは、その方向を異にするものでなければならない。スピノザも外物については、我々の精神は不十全なる知識しか有せないという。十全と不十全とは程度の差ではなく・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・及び鴉等は鳴き叫び風を切りて町へ飛び行くまもなく雪も降り来らむ――今尚、家郷あるものは幸福なるかな。 の初聯で始まる「寂寥」の如き詩は、その情感の深く悲痛なることに於て、他に全く類を見ないニイチェ独特の名・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫