・・・この可憐な捨児の話が、客松原勇之助君の幼年時代の身の上話だと云う事は、初対面の私にもとうに推測がついていたのであった。 しばらく沈黙が続いた後、私は客に言葉をかけた。「阿母さんは今でも丈夫ですか。」 すると意外な答があった。・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・一体、親兵衛は少年というよりは幼年というが可なるほどの最年少者であって、豪傑として描出するには年齢上無理がある。勢い霊玉の奇特や伏姫神の神助がやたらと出るので、親兵衛武勇談はややもすれば伏姫霊験記になる。他の犬士の物語と比べて人間味が著しく・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ ウラジオストックの幼年学校を、今はやめている弟のコーリヤが、白い肩章のついた軍服を着てカーテンのかげから顔を出した。「ガーリヤは?」「用をしてる。」「一寸来いって。」「何です? それ。」 コーリヤは、松木の新聞包を・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・天気のいい日には近江の伊吹山までかすかに見えるということを私は幼年のころに自分の父からよく聞かされたものだが、かつてその父の旧い家から望んだ山々を今は自分の新しい家から望んだ。 私はその二階へ上がって来た森さんとも一緒に、しばらく窓のそ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ぼくは幼年時、身体が弱くてジフテリヤや赤痢で二三度昏絶致しました。八つのとき『毛谷村六助』を買って貰ったのが、文学青年になりそめです。親爺はその頃妾を持っていたようです。いまぼくの愛しているお袋は男に脅迫されて箱根に駈落しました。お袋は新子・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・小さい遺書のつもりで、こんな穢い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無に幽かな燭燈がともった。死に切れなかった。その「思い出」一篇だけでは、なんとしても、不満・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・小さい遺書のつもりで、こんな穢い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無に幽かな燭燈がともった。死に切れなかった。その「思い出」一篇だけでは、なんとしても、不満・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・「さっきの、幼年時代をお書きになる時、子供の心になり切る事も、むずかしいでしょうし、やはり作者としての大人の心も案配されていると思うのですが。」もっともな質問であります。「いや、その事に就いては、僕は安心しています。なぜなら、僕は、・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は遺憾ながら極めて少ない。ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・しかし自分の幼年時代の追憶の夢の舞台に登場する唯一の異性のヒロインはこのやや不器量で可哀そうな丑尾さんであったのである。 重兵衛さんの長男楠次郎さんから自分は英語の手ほどきを教わった。これについては前に書いたことがあるから略する。楠さん・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
出典:青空文庫