・・・ 一風呂の浴みに二人は今日の疲れをいやし、二階の表に立って、別天地の幽邃に対した、温良な青年清秀な佳人、今は決してあわれなかわいそうな二人ではない。 人は身に余裕を覚ゆる時、考えは必ずわれを離れる。「おとよさんちょっとえい景色ね・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 燕温泉に行った時、ルビーのような、赤い実のついている苔桃を見つけて、幽邃のかぎりに感じたことがあります。日光の射さない、湿っぽい木蔭に、霧にぬれている姿は、道ばたの石の間から、伸び出て咲いている雪のような梅鉢草の花と共に、何となく・・・ 小川未明 「果物の幻想」
・・・男体山麓の噴火口は明媚幽邃の中禅寺湖と変わっているがこの大噴火口はいつしか五穀実る数千町歩の田園とかわって村落幾個の樹林や麦畑が今しも斜陽静かに輝いている。僕らがその夜、疲れた足を踏みのばして罪のない夢を結ぶを楽しんでいる宮地という宿駅もこ・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 今日交通の便開けた時代でも、身延山詣でした人はその途中の難と幽邃さとに驚かぬ者はあるまい。それが鎌倉時代の道も開けぬ時代に、鎌倉から身延を志して隠れるということがすでに尋常一様な人には出来るものでないことは一度身延詣でしてみれば直ちに・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・景色もこれという事はないが、幽邃でなかなか佳いところだ。という委細の談を聞いて、何となく気が進んだので、考えて見る段になれば随分頓興で物好なことだが、わざわざ教えられたその寺を心当に山の中へ入り込んだのである。 路はかなりの大さの渓に沿・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・河の流れをたどって行く鉛筆の尖端が平野から次第に谿谷を遡上って行くに随って温泉にぶつかり滝に行当りしているうちに幽邃な自然の幻影がおのずから眼前に展開されて行く。谿谷の極まるところには峠があって、その向う側にはまた他の谿谷が始まる、それを次・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗幽邃の趣をなしていたので、娼楼の建物をその儘に之を温泉旅館となして営業をなすものがあった。当時都下の温泉旅館と称するものは旅客の宿泊する処では・・・ 永井荷風 「上野」
・・・そして広大なるこの別天地の幽邃なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何か知ら心の奥深く、騒しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される時、この霊廟の来歴を説明する僧侶のあたかも読経するような低い無表情の声を聞け。――昔は十万石以上・・・ 永井荷風 「霊廟」
出典:青空文庫