・・・薄暗い食堂の壁には、すてきに大きい床屋鏡がはめこまれていて、私の顔は黒眼がち、人なつかしげに、にこにこしていた。意外にも福福しい顔であったのだ。一刻も早く酔いしれたく思って、牛鍋を食い散らしながら、ビイルとお酒とをかわるがわるに呑みまぜた。・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・今、同じ部屋に居る会社の給仕君と床屋に行って来ました。加藤咄堂氏のラジオを聞いてきました。帰りに菓子四十銭、ピジョン一箱で、完全に文無しになりました。今シェストフ『自明の超克』『虚無の創造』を読んでいます。彼は云います、『一般に伝記というも・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・もっとも、これは、床屋へはいって、すっぱり綺麗になるというあの「実は」という場面は無くて、おしまいまで、「きたな作り」だそうです。「作り」でもなんでもない、ほんものの「きたな」だった。芝居にも何もなりません。でも、どこか似ているそうですよ。・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
・・・髪をあまりに長く伸ばしていると、あるいはウロンの者として吠えられるかもしれないから、あれほどいやだった床屋へも精出してゆくことにした。ステッキなど持って歩くと、犬のほうで威嚇の武器と勘ちがいして、反抗心を起すようなことがあってはならぬから、・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・服装というものは不思議なもので、第二国民兵の服装をしていると、どんな人でも、ねっからの第二国民兵に見えて来るもので、職業、年齢、知識、財産などのにおいは全然、消えてしまって、お医者も職工さんも重役も床屋さんも、みんな同年配の同資格の第二国民・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・「床屋」が何ゆえに理髪師であるか不思議である。「髪結床」から来たかと思われる。その「床」がわからない。 マレイ語で頭髪を剃るのは chukor であり女の髪を剃るのが tokong である。また蘭領インドでは「店」が toko ・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・「上根岸四十番不折」としてある。隣の袋町に○印をして「浅井」とあるのは浅井忠氏の家であろう。この袋町への入口の両脇に「ユヤ」「床屋」としてある。この界隈の右方に鳥居をかいて「三島神社」とある。それから下の方へ下がった道脇に「正門」とあるのは・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・表通りへ出るとさすがに明るかった。床屋のガラス戸からもれる青白い水のような光や、水菓子屋の店先に並べられた緑や紅や黄の色彩は暗やみから出て来た目にまぶしいほどであった。しかしその隣の鍛冶屋の店には薄暗い電燈が一つついているきりで恐ろしく陰気・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・そうして、この重大閣議を終ってから床屋で散髪している○相のどこかいつもより明るい横顔と、自宅へ帰って落着いて茶をのんでいる特別にこやかな△相の顔とが並んで頼もし気に写し出されている。ここにも緊張の後に来る弛緩の長閑さがあるようである。「試験・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・地口や駄洒落は床屋以下に流通している時代ではあるまいか。 日本画の生命はこのような低級な芸当にあるとは思われない。近代西洋画が存在の危機に瀕した時に唯一の救済策として日本画の空気を採り入れたのは何故であろう。単に眼先を変えるというような・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
出典:青空文庫