・・・毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。「街では自分は苦しい」 北には加茂の森が赤い鳥居を点じていた。その上に遠い山・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・城の本丸の彼がいつも坐るベンチの後ろでであった。 根方に松葉が落ちていた。その上を蟻が清らかに匍っていた。 冷たい楓の肌を見ていると、ひぜんのようについている蘚の模様が美しく見えた。 子供の時の茣蓙遊びの記憶――ことにその触感が・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・僕は母の前に座るや、『貴女は私を離婚すると里子に言ったそうですが、其理由を聞きましょう。離婚するなら仕ても私は平気です。或は寧ろ私の望む処で御座います。けれども理由を被仰い、是非其の理由を聞きましょう。』と酔に任せて詰寄りました。すると・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・私は変ですから坐ることもできません、すると武が出し抜けに、『見てもらいたいと言うたのはこれでございます』というや女は突っ伏してしまいました。私はなんと言ってよいか、文句が出ません、あっけに取られて武の顔を見ると、武も少し顔を赤らめて言い・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 老人は、机のはしに、丸い爪を持った指の太い手をついて、急に座ると腰掛が毀れるかのように、腕に力を入れて、恐る/\静かに坐った。 朝鮮語の話は、傍できいていると、癇高く、符号でも叫んでいるようだった。滑稽に聞える音調を、老人は真面目・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・男女とも一室で、何でも年の大きい女の傍に小さい男の児が坐るというような体になって居たので、自然小さいものは其傍に居る娘さん達の世話になったのです。私はお蝶さんという方を大層好いて居て、其方をたよりにばかりして居た。其方に手を執って世話を仕て・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・と胴太き声の、蒼く黄色く肥ったる大きなる立派な顔の持主を先に、どやどやと人々入来りて木沢を取巻くように坐る。臙脂屋早く身退りし、丹下は其人を仰ぎ見る、其眼を圧するが如くに見て、「丹下、けしからぬぞ、若い若い。あやまれあやまれ。後輩の・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 顔のちっとも写らない壊れた小さい鏡の置いてある窓際に坐ると、それでも首にハンカチをまいて、白いエプロンをかけてくれる。この「赤い」床屋さんは瘤の多いグル/\頭の、太い眉をした元船員の男だった。三年食っていると云った。出たくないかときく・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・妹はそして椅子に坐る拍子に、何故か振りかえって、お母さんの顔をちらッと見た。母は後で、その時はあ――あ、失敗ったと思ったと、元気のない顔をして云っていた。横に坐っていた上田の母が、「まア、まア、あんたとこの娘さんにもあきれたもんだ」と、母に・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・と藤さんは坐る。灯火に見れば、油絵のような艶かな人である。顔を少し赤らめている。「あしが一番あん」と章坊が着物を引っ抱えて飛びだすと、入れ違いに小母さんがはいってきて、シャツの上から着物を着せかけてくれる。「さ、これをあげましょ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫