・・・急行列車は案外にすいていて、鶴は楽に座席に腰かけられた。 汽車は走る。鶴は、ふと、詩を作ってみたいと思った。無趣味な鶴にとって、それは奇怪といってもよいほど、いかにも唐突きわまる衝動であった。たしかに生れてはじめて味う本当にへんな誘惑で・・・ 太宰治 「犯人」
・・・約束どおり三浦君は、姉妹とは全然他人の振りをして、ひとりずっと離れて座席にすわった。なるほど、バスの乗客の大部分はこの土地の人らしく、美しい姉妹に慇懃な会釈をする。どちらまで? と尋ねる人もある。「は、船津まで、買い物に。」律子は澄まし・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・この映画の中で、自分の座席の付近の観客、ことに婦人の観客がさもおもしろそうにおかしそうにまたうれしそうに笑い出した場面が二つある。一つは雨夜の仮の宿で、毛布一枚の障壁を隔てて男女の主人公が舌戦を交える場面、もう一つは結婚式の祭壇に近づきなが・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・玄関から狭い廊下をくぐって案内された座席は舞台の真正面であった。知っている人の顔がそこらのあちこちに見えた。 独立な屋根をもった舞台の三方を廻廊のような聴衆観客席が取り囲んで、それと舞台との間に溝渠のような白洲が、これもやはり客席になっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・この画面が進行していたとき、自分の前の座席にいた男の子が突然大きな声で「アー、大掃除だ」と云った。つい近頃五月の大掃除があったのを思い出したのであろう。あちらこちらの暗がりで笑声が聞えた。 子供は子供の見方をするように人々はまた思い思い・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・三日前に座席をとったのであるが、二階の二等席はもうだいたい売り切れていて、右のほうのいちばんはしっこにやっと三人分だけ空席が残っていた。当日となって行って見ると、そのわれわれの座席の前に補助椅子の観客がいっぱい並んで、その中には平気で帽子を・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ それはとにかく、ある時東海道の汽車に乗ったら偶然梅ヶ谷と向かい合いの座席を占めた。からだの割合にかわいい手が目についた。みかんをむいて一袋ずつ口へ運び器用に袋の背筋をかみ破ってはきれいに汁を吸うて残りを捨てていた。すっかり感心して、そ・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・第一のでは、入り口の踏み台までも人がぶら下がっているのに、それがまだ発車するかしないくらいの時同じ所に来る第二のものでは、もうつり皮にすがっている人はほんの一人か二人くらいであったり、どうかすると座席に空間ができたりする。第三のになると降り・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・ 宮の下で下りて少時待っているうちに、次の箱根町行が来たが、これも満員で座席がないらしいので躊躇していたら、待合所の乗客係が気を利かして居合わせたハイヤーを別に仕立ててバス代用に提供してくれた。のろい人間もたまに得をすることがあるのであ・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ 八 劇場などで座席を選ぶ場合に、一列の椅子のどちらか一方の端の席がいいという人がある。自分も実はその一人である。それは、出たい時にいつでも楽に出られるという便宜があるためである。しかしその便宜を実際に利用するこ・・・ 寺田寅彦 「破片」
出典:青空文庫