・・・ 彼は、座席へバスケットを置くと、そのまま食堂車に入った。 ビールを飲みながら、懐から新聞紙を出して読み始めた。新聞紙は、五六種あった。彼は、その五つ六つの新聞から一つの記事を拾い出した。「フン、棍棒強盗としてあるな。どれにも棍・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
洋傘だけを置いて荷物を見にプラットフォームへ出ていた間に、児供づれの女が前の座席へ来た。反対の側へ移って、包みを網棚にのせ、空気枕を膨らましていると、「ああ、ああ、いそいじゃった!」 袋と洋傘を一ツの手に掴んだ肥っ・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・皆の腰かけている平土間の座席におられるものと思いこんで行ったら、その横を通りすぎて、計らずも数人の人の並んでいる演台の上へ案内されてしまった。裏のところで案内して来たひとに、私は何も話しに来たのではないんですからと再三たのむのだけれども、き・・・ 宮本百合子 「打あけ話」
・・・鳥打帽をかぶり、半外套をひっかけた大きな体の連中が、二人分の座席に三人ずつ腰かけ、通路まで三重ぐらいに詰って、黙って、ミッシリ、ミッシリ押し合っている。 電車は段々モスク市の中心をはずれた。 東南の終点で降りると、工場街だ。広場を前・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・エドワード七世即位式の道すじに座席が与えられた。そういう父から、母へ来たのはインド洋をこしての叱責だった。あのお前が洋服だと思っている服は西洋の女のネマキであること。はいているクツは人目に見せるべきものでない室内靴であること。ああいう写真は・・・ 宮本百合子 「菊人形」
斜向いの座席に、一人がっしりした骨組みの五十ばかりの農夫が居睡りをしていたが、宇都宮で目を醒した。ステイションの名を呼ぶ声や、乗客のざわめきで、眠りを醒されたという工合だ。窓の方を向いて窮屈に胡座をくんでいた脚を下駄の上に・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
・・・劇場は、だからプロレタリアート農民の文化的生活の切りはなせない一部分として、いつも座席の何割かは前もって産別労働組合を通じ無代で勤労者のために保留している。 工場の労働者、集団農場員、学生はときどきこういうタダ切符を組合から貰って芝居見・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ 棧敷の内張も暗紅色、幾百の座席も暗紅色。その上すべての繰形に金が塗ってあるからけばけばしい、重いバルコニーの迫持の間にあって、重り合った群集の顔は暗紅色の前に蒼ざめ、奥へひっこみ、ドミエ風に暗い。数千のこのような見物に向って、オペラ用・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・ 段々速力をゆるめて赤い柱の傍に来、車掌が街角の名を呼ぶと、どんな時でも少くとも三四人の者が、俄に活々した表情を顔に表して座席を立った。私もその裡に混り前後して降るのだが、又いつもきまって、後をふりかえり自動車が来ないか注意しているひま・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・そして親子の座席にしている材木の端に腰をかけた。 親子はただ驚いて見ている。仇をしそうな様子も見えぬので、恐ろしいとも思わぬのである。 男はこんなことを言う。「わしは山岡大夫という船乗りじゃ。このごろこの土地を人買いが立ち廻るという・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫