・・・ 教員室は以前の幹事室兼帯でも手狭なので、二階の角にあった教室をあけて、そっちの方へ引越した。そこに大きな火鉢を置いた。鉄瓶の湯はいつでも沸いていた。正木大尉は舶来の刻煙草を巻きに来ることもあるが、以前のようにはあまり話し込まない。幹事・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・お三輪と同じように焼出された親戚の中には、東京の牛込へ、四谷へ、あるいは日暮里へと、落ちつく先を尋ね惑い、一年のうちに七度も引越して歩いて、その頃になってもまだ住居の定まらない人達すらあった。 お三輪は思い出したように、仮の仏壇のところ・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・原はこれから家を挙げて引越して来るにしても、角筈か千駄木あたりの郊外生活を夢みている。足ることを知るという哲学者のように、原は自然に任せて楽もうと思うのであった。 美しい洋傘を翳した人々は幾群か二人の側を通り過ぎた。互に当時の流行を競い・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・もう少し、ましな家に引越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が廻らないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだって、凶暴な魔物ではない。妻子を見殺しにして平然、というような「度胸」を持・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・明朝すぐに引越しますよ。敷金はそのおり、ごあいさつかたがた持ってあがりましょうね。いけないでしょうかしら?」 こんな工合いである。いけないとは言えないだろう。それに僕は、ひとの言葉をそのままに信ずる主義である。だまされたなら、それはだま・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・温泉に行って静かに思索してはいかがでしょう。青森の兄さんとも相談して、よろしくとりはからわれるよう老婆心までに申し上げます。或いは最早や温泉行きの手筈もついていることかと思います。温泉に引越したら御様子願い上げます。北沢君なんかといっしょに・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・としの暮に私たちは、ほんのわずかなお道具を持って、この、いやに大きいお家へ引越して参りました。あなたは、私の知らぬ間にデパートへ行って何やらかやら立派なお道具を、本当にたくさん買い込んで、その荷物が、次々とデパートから配達されて来るので、私・・・ 太宰治 「きりぎりす」
九月のはじめ、甲府からこの三鷹へ引越し、四日目の昼ごろ、百姓風俗の変な女が来て、この近所の百姓ですと嘘をついて、むりやり薔薇を七本、押売りして、私は、贋物だということは、わかっていたが、私自身の卑屈な弱さから、断り切れず四・・・ 太宰治 「市井喧争」
・・・震災のおかげで大学に地震研究所が設立されると同時に自分は学部との縁を切って研究所員に転じ、しばらくの間は工学部のある教室のバラックの仮事務所に出入りしていて、研究所の本建築が出来上がると同時にその方に引越した。こうして転々と居所を変えている・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・っては梯子の上り下りの苦しそうな事があり、また力無い咳をするところなどを見るとあるいはと思う事があって友に計ったが、この家に数年前から泊っていて、ほとんど家内同様になっている医科の男があってそれが一向引越しもしないところから見るとまさかそう・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
出典:青空文庫