・・・おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「高が四文のはした銭ではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ HやNさんに別れた後、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音のほかに時々澄み渡った蜩の声も僕等の耳へ伝わって来た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いている蜩だった。「おい、M!」 僕はいつかM・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 仁右衛門は一旦戸外に出てから待てといって引返して来た。荷物を背負ったままで、彼れは藁繩の片っ方の端を囲炉裡にくべ、もう一つの端を壁際にもって行ってその上に細く刻んだ馬糧の藁をふりかけた。 天も地も一つになった。颯と風が吹きおろした・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・それを見つけると、引返して来た青年たちは一度にときをつくって駈けよりざまにフランシスを取かこんだ。「フランシス」「若い騎士」などとその肩まで揺って呼びかけても、フランシスは恐しげな夢からさめる様子はなかった。青年たちはそのていたらくにまたど・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・と犬に向かっていって、後ろも見ずに引き返した。 レリヤは皆と別荘を離れて停車場にいって、初めてクサカに暇乞をしなかったことを思い出した。 クサカは別荘の人々の後について停車場まで行って、ぐっしょり沾れて別荘の処に帰って来た。その時ク・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ この池を独り占め、得意の体で、目も耳もない所為か、熟と視める人の顔の映った上を、ふい、と勝手に泳いで通る、通る、と引き返してまた横切る。 それがまた思うばかりではなかった。実際、其処に踞んだ、胸の幅、唯、一尺ばかりの間を、故とらし・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ しばらくすると、薄墨をもう一刷した、水田の際を、おっかな吃驚、といった形で、漁夫らが屈腰に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌が居たら押えたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しで遁げた、たった今。……い・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・鉄橋を引返してくると、牛の声は幽かになった。壮快な水の音がほとんど夜を支配して鳴ってる。自分は眼前の問題にとらわれてわれ知らず時間を費やした。来て見れば乳牛の近くに若者たちもいず、わが乳牛は多くは安臥して食み返しをやっておった。 何事を・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 彼は、せっかく、箱に近づいたかかとを、後方に引き返しました。ふり向くと、夕闇の中に、老人の姿は消えて、黒い箱だけが、いつまでも砂の上にじっとしていました。 夜中に、目をさますと、すさまじいあらしでした。海は、ゴウゴウと鳴っていまし・・・ 小川未明 「希望」
・・・そして、呉服店のおかみさんが、しんせつに、泊まっていったらというのをきかずに、停車場へ引き返して、出立したのでした。 翌日、真吉は、東京へ着くと、すぐにお店に帰って、昨日からのことを正直に主人に話しますと、主人は、真吉の孝心の深いのに感・・・ 小川未明 「真吉とお母さん」
出典:青空文庫