・・・を飲んではいたが、いくらかヤケくそな気持から、上野駅まで送ってきた洗いざらしの単衣着たきりのおせいを郷里につれて行って、謝罪的な気持から妻に会わせたりしたのだが、その結果がいっそうおもしろくなかった。弘前の菩提寺で簡単な法要をすませたが、そ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・葬式の通知も郷里の伯母、叔父、弟の細君の実家、私の妻の実家、これだけへ来る十八日正二時弘前市の菩提寺で簡単な焼香式を営む旨を書き送った。 十七日午後一時上野発の本線廻りの急行で、私と弟だけで送って行くことになった。姉夫婦は義兄の知合いの・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・私が弘前の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学したのは昭和五年の春であるから、つまり、東京へ出て三年目に小説を発表したわけである。けれども私が、それらの小説を本気で書きはじめたのは、その前年からの事であった。その頃の事情を「東京八景・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・慶四郎君は小学校を卒業してから弘前の中学校に行き、私は青森の中学校にはいった。それから慶四郎君は、東京のK大学にはいり、私も東京へ出たが、あまり逢う事は無かった。いちど銀座で逢い、その時私はちっともお金を持っていなかったので、慶四郎君の御ち・・・ 太宰治 「雀」
・・・ あれは私が弘前の高等学校にはいって、その翌年の二月のはじめ頃だったのではなかったかしら、とにかく冬の、しかも大寒の頃の筈である。どうしても大寒の頃でなければならぬわけがあるのだが、しかし、そのわけは、あとで言う事にして、何の宴会であっ・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・私は昭和五年に弘前の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学した。仏蘭西語を一字も解し得なかったけれども、それでも仏蘭西文学の講義を聞きたかった。辰野隆先生を、ぼんやり畏敬していた。私は、兄の家から三町ほど離れた新築の下宿屋の、奥の一室・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・お前が弘前の女学校を卒業して、東京の専門学校に行くと言い出した時にも、おれは何としても反対で、気分が悪くなって寝込んでしまったが、あさはおれの寝ている枕元に坐ったきりで、一生のたのみだから数枝を数枝の行きたいという学校に行かせてやってくれと・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・もし翰が持出した珍書の中にむかし弘前医官渋江氏旧蔵のものが交っていたなら、世の中の事は都て廻り持であると言わなければならない。 明治四十一年わたしは海外より還って再び島田を見た時、島田は既に『古文旧書考』四巻の著者として、支那日本両国の・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
出典:青空文庫