・・・いつも髪を耳隠しに結った、色の白い、目の冴え冴えしたちょっと唇に癖のある、――まあ活動写真にすれば栗島澄子の役所なのです。夫の外交官も新時代の法学士ですから、新派悲劇じみたわからずやじゃありません。学生時代にはベエスボールの選手だった、その・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ 旦那の牧野は三日にあげず、昼間でも役所の帰り途に、陸軍一等主計の軍服を着た、逞しい姿を運んで来た。勿論日が暮れてから、厩橋向うの本宅を抜けて来る事も稀ではなかった。牧野はもう女房ばかりか、男女二人の子持ちでもあった。 この頃丸髷に・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・保吉は役所から帰った父と、薄暗い風呂にはいっていた。はいっていたとは云うものの、体などを洗っていたのではない。ただ胸ほどある据え風呂の中に恐る恐る立ったなり、白い三角帆を張った帆前船の処女航海をさせていたのである。そこへ客か何か来たのであろ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・U氏は毎日下血しながら役所に通った。ハンケチを巻き通した喉からは皺嗄れた声しか出なかった。働けば病気が重る事は知れきっていた。それを知りながらU氏は御祈祷を頼みにして、老母と二人の子供との生活を続けるために、勇ましく飽くまで働いた。そして病・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・初めは何か子供の悪戯だろうくらいにして、別に気にもかけなかったが、段々と悪戯が嵩じて、来客の下駄や傘がなくなる、主人が役所へ出懸けに机の上へ紙入を置いて、後向に洋服を着ている間に、それが無くなる、或時は机の上に置いた英和辞典を縦横に絶切って・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・掏賊の手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱いでいるのはその事でしょう。可いじゃありませ・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・私ばかりじゃなかった、昼は役所へ出勤する人だったからでもあろうか、鴎外の訪客は大抵夜るで、夜るの千朶山房は品詩論画の盛んなる弁難に更けて行った。 鴎外は睡眠時間の極めて少ない人で、五十年来の親友の賀古翁の咄でも四時間以上寝た事はない・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・斜子の羽織の胴裏が絵甲斐機じゃア郡役所の書記か小学校の先生染みていて、待合入りをする旦那の估券に触る。思切って緞子か繻珍に換え給え、」(その頃羽二重はマダ流行というと、「緞子か繻珍?――そりゃア華族様の事ッた、」と頗る不平な顔をして取合わな・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・お俊はしきりに私の世話を焼いて、飯まで炊いてくれることもあり、菜ができると持って来てくれる、私の役所から帰らぬうちにちゃんと晩の仕度をしてくれることもあり、それですから藤吉がある時冷かしまして、『お前はこのごろ亭主が二人できたから忙がしいな・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・いまさらわしが隠居仕事で候のと言って、腰弁当で会社にせよ役所にせよ病院の会計にせよ、五円十円とかせいでみてどうする、わしは長年のお務めを終えて、やれやれ御苦労であったと恩給をいただく身分になったのだ。治まる聖代のありがたさに、これぞというし・・・ 国木田独歩 「二老人」
出典:青空文庫