・・・「もし御者ですと云ったら、僕は彼奴に三十銭やるつもりだったのに馬鹿な奴だ」「何にも世話にならないのに、三十銭やる必要はない」「だって君は一昨夜、あの束髪の下女に二十銭やったじゃないか」「よく知ってるね。――あの下女は単純で気・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴の事だからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖に、よしよし分ったなどと言って生呑込にしてしまう。其時分は常盤会寄宿舎に居たものだから、時刻になると食堂で飯を食う。或時又来て呉れという。僕が其時返辞をし・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・ ――…… 私は顔中を眼にして、彼奴を睨んだ。 看守長は慌てて出て行った。 私は足を出したまま、上体を仰向けに投げ出した。右の足は覗き窓のところに宛てて。 涙は一度堰を切ると、とても止るものじゃない。私はみっともないほど・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・わたくしは何と仰ゃっても彼奴のいる傍へ出て行く事は出来ません。もしか明日の朝起きて見まして彼奴が消えて無くなっていれば天の助というものでございます。わたくしは御免を蒙りまして、お家の戸閉だけいたしまして、錠前の処へはお寺から頂いて来たお水で・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・使者二 私共は素早く、馬鹿正直の翻車魚を捕えました。彼奴は、見ないことを云えない代り、知っていることを隠す術を知りません。尋ねて見たら、徴の通りを云いました。大地の神が百年の眠りからさめて身じろぎをしようとしているのです。ミーダ 本・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・Yの洋装に田舎の子らしい反感を持ったのと、手下どもに己を誇示したかったのとが、偶然この少年をして「殴られる彼奴」にした原因だ。帰り、天主堂の坂下にその少年、他の仲間といたが、Yを認めると背中に括りつけられた隠し切れない旗じるしをひどく迷惑に・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ そこで老人確かに覚えがある、わかった、真っ赤になって怒った。『おやッ! 彼奴がわしを見たッて、あの悪党が。彼奴はわしが、そらここにこの糸を拾ったの見ただ、あなた。』 ポケットの底をさぐって、かれは裡から糸の切れくずを引きだした。・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫