・・・ 僕が病院へ帰って来ると、僕の父は僕を待ち兼ねていた。のみならず二枚折の屏風の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握ったり撫でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した当時のことを話し出した。それは僕の母と二人で箪笥を買い・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・先ほどからあなた様を御待ち兼ねでございました。」 御婆さんは愛想よくこう言いながら、すぐその玄関のつきあたりにある、ミスラ君の部屋へ私を案内しました。「今晩は、雨の降るのによく御出ででした。」 色のまっ黒な、眼の大きい、柔な口髭・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・丁度その日は空もほがらかに晴れ渡って、門の風鐸を鳴らすほどの風さえ吹く気色はございませんでしたが、それでも今日と云う今日を待ち兼ねていた見物は、奈良の町は申すに及ばず、河内、和泉、摂津、播磨、山城、近江、丹波の国々からも押し寄せて参ったので・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・或る一人が他の一人を窘めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引をよく調べる男でしたが、文字の成立まで調べて置いて、そして敵が講じ了るのを待ち兼ねて、難問の箭を放ちました。何様も十分調べて置いてシツッコク文字論をするので講者は大・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・そして老人がまだ口を開く隙のないうちに、あわただしく、吃りながら、さも待ち兼ねていたように、こう云った。「おじさん。聞いておくれ。おいらはもう二日このかたなんにも食わないのだ。」 青年の常で、感情は急劇に変化する。殊に親の手を離れて・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・テツさんは汐田の卒業を待ち兼ねて、ひとりで東京へ逃げて来たのであった。 そのころには私も或る無学な田舎女と結婚していたし、いまさら汐田のその出来事に胸をときめかすような、そんな若やいだ気持を次第にうしないかけていた矢先であったから、汐田・・・ 太宰治 「列車」
・・・撮影が終わると待ち兼ねていた銃口からいっせいに薄い無煙火薬の煙がほとばしる。親熊は突然あと足を折って尻もちをつくような格好をして一度ぐるりと回るかと思うと、急いで駆け出すが、すぐに後ろを振りむいて何かしら自分の腰に食いついている目に見えぬ敵・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・上野へ着くのを待ち兼ねて下りる。山内へ向かう人数につれてぶらぶら歩く。西洋人を乗せた自動車がけたたましく馳け抜ける向うから紙細工の菊を帽子に挿した手代らしい二、三人連れの自転車が来る。手に手に紅葉の枝をさげた女学生の一群が目につく。博覧会の・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・聴衆は待ち兼ねていたように拍手をした。ケーベルさんが立ち上がるのも待たないで無遠慮に拍手を浴びせかけた。ケーベルさんは少しはにかんだような色を柔和な顔に浮かべて聴衆に挨拶した。 演奏していた時の様子も思い出す。少し背中を猫背に曲げて、時・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・放課のベルを待ち兼ねて学校を飛出し、信さんに教わった新店を尋ねたら、すぐにわかった。店へはいると一面に吊した絵のニスの香に酔うてしまう。あれも好い。これも気に入った。鍛冶屋の煙突から吹き出る真赤な焔が黒い樹に映えて遠い森の上に青い月が出てい・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
出典:青空文庫