・・・彼はいよいよ悪意のある運命の微笑を感じながら、待合室の外に足を止めた物売りの前へ歩み寄った。緑いろの鳥打帽をかぶった、薄い痘痕のある物売りはいつもただつまらなそうに、頸へ吊った箱の中の新聞だのキャラメルだのを眺めている。これは一介の商人では・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・すると果して上り列車は二三分前に出たばかりだった。待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めていた。僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。が、ちょっと苦笑したぎり、とにかく次の列車を待つ為に停車場前のカッフェへはいる・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ただ一つ覚えているのは、待合室の煖炉の前に汽車を待っていた時のことである。保吉はその時欠伸まじりに、教師と云う職業の退屈さを話した。すると縁無しの眼鏡をかけた、男ぶりの好いスタアレット氏はちょいと妙な顔をしながら、「教師になるのは職業で・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 停車場へ入った時は、皆待合室にいすくまったほどである。風は雪を散らしそうに寒くなった。一千年のいにしえの古戦場の威力である。天には雲と雲と戦った。 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・銃口が私の胸の処へ向きましたものでございますから、飛上って旦那様、目もくらみながらお辞儀をいたしますると、奥様のお声で、 おやお婆さん、ここは上等の待合室なんだよ、とどうでしょう……こうでございます。 人の胃袋の加減や腹工合はどうで・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・予はいやな気持がしたので、耳も貸さずに待合室へ廻った。明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端書を出すためである。 キロキロと笛が鳴る。ピューと汽笛が応じて、車は闇中に動き出した。音ばかり長い響きを曳いて、汽車・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・通学生の待合室にすらも若い学生がしばしば出入した。学生の倶楽部や青年の会合には必ず女学生が出席して、才色あるものが女王の位置を占めていた。が、子女の父兄は教師も学校も許す以上はこれを制裁する術がなく、呆然として学校の為すままに任して、これが・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・汽船との連絡の待合室で顔を洗い、そこの畳を敷いた部屋にはいって朝の弁当をたべた。乗替えの奥羽線の出るのは九時だった。「それではいよいよ第一公式で繰りだしますか?」「まあ袴だけにしておこうよ。あまり改った風なぞして鉄道員に発見されて罰・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・そして途中乞食をしながら、ほとんど二十日余りもかかって福島まで歩いてきたのだが、この先きは雪が積っていて歩けぬので、こうして四五日来ここの待合室で日を送っているのだというのであった。「巡査に話してみたのか?」「話したけれど取上げてく・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 二人だけは帰って行く者の仲間から除外されて、待合室の隅の方で小さくなっていた。二人は、もと/\よく気が合ってる同志ではなかった。小村は内気で、他人から云われたことは、きっとするが、物事を積極的にやって行くたちではなかった。吉田は出しゃ・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
出典:青空文庫