・・・常子は青い顔をしたまま、呼びとめる勇気も失ったようにじっと夫の後ろ姿を見つめた。それから、――玄関の落ち葉の中に昏々と正気を失ってしまった。…… 常子はこの事件以来、夫の日記を信ずるようになった。しかしマネエジャア、同僚、山井博士、牟多・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・しかしそう云う後ろ姿はなぜか四歳の保吉の心にしみじみと寂しさを感じさせた。「お父さん」――一瞬間帆前船を忘れた彼は思わずそう呼びかけようとした。けれども二度目の硝子戸の音は静かに父の姿を隠してしまった。あとにはただ湯の匂に満ちた薄明りの広が・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・そのもの静かな森の路をもの静かにゆきちがった、若い、いや幼い巫女の後ろ姿はどんなにか私にめずらしく覚えたろう。私はほほえみながら何度も後ろをふりかえった。けれども今、冷やかな山懐の気が肌寒く迫ってくる社の片かげに寂然とすわっている老年の巫女・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・ 僕はふと口を噤み、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。彼は丁度耳の下に黄いろい膏薬を貼りつけていた。「何人もの接吻の為に?」「そんな人のように思いますがね」 彼は微笑して頷いていた。僕は彼の内心では僕の秘密を知る為に絶えず僕を注・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・上を見るとうす暗い中に夏服の後ろ姿がよろけるように右左へゆれながら上って行く。自分もつえを持ってあとについて上りはじめた。上りはじめて少し驚いた。路といってはもとよりなんにもない。魚河岸へ鮪がついたように雑然ところがった石の上を、ひょいひょ・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・――頭からゾッとして、首筋を硬く振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の頸脚がスッと白い。 違い棚の傍に、十畳のその辰巳に据えた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山茶花の悄れたかと思う、濡れたように、しっとりと身についた藍・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・白地の手ぬぐいをかぶった後ろ姿、一村の問題に登るだけがものはある。満蔵なんか眼中にないところなどはすこぶる頼もしい。省作にからかわれるのがどうやらうれしいようにも見えるけれど、さあ仕事となれば一生懸命に省作を負かそうとするなどははなはだ無邪・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・焜炉の火に煙草をすっていて、自分と等しく奈々子の後ろ姿を見送った妻は、「奈々ちゃんはね、あなた、きのうから覚えてわたい、わたいっていいますよ」「そうか、うむ」 答えた自分も妻も同じように、愛の笑いがおのずから顔に動いた。 出・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ その町の人々は、この見慣れない乞食の後ろ姿を見送りながら、どこからあんなものがやってきたのだろう。これから風の吹くときには気をつけねばならぬ。火でもつけられたりしてはたいへんだ。早くどこかへ追いやってしまわなければならぬ、といったもの・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・と、お姉さんは、その後ろ姿を見送りながらおっしゃいました。お姉さんには、その無邪気なのが、なんとなくいじらしかったのです。 きょうも、また、良ちゃんは、兄の英ちゃんに、釣りにつれていってくれと、泣かんばかりにして頼んでいました。「や・・・ 小川未明 「小さな弟、良ちゃん」
出典:青空文庫