・・・と同時に妙子の耳には、丁度銅鑼でも鳴らすような、得体の知れない音楽の声が、かすかに伝わり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きっと聞える声なのです。 もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ませ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・そうして、今まで彼につきまとっていた得体の知れない不安が、この沙汰を聞くと同時に、跡方なく消えてしまうのを意識した。今の彼の心にあるものは、修理に対するあからさまな憎しみである。もう修理は、彼にとって、主人ではない。その修理を憎むのに、何の・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・そうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上って来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返って、相不変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・の位混むと、乗客は次第に人間らしい感覚を失って、自然動物的な感覚になって、浅ましくわめき散らすのだったが、わずかに人間的な感覚といえば、何となくみじめな想いと、そして突如として肚の底からこみ上げて来る得体の知れない何ものかに対する得体の知れ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ それは、いつどんな時代にも、どんな世相の時でも、大人にも子供にも男にも女にも、ふと覆いかぶさって来る得体の知れぬ異様な感覚であった。 人間というものが生きている限り、何の理由も原因もなく持たねばならぬ憂愁の感覚ではないだろうか。そ・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・ そんな競走が続くと、もう誰もかれも得体の知れぬ魔に憑かれたように馬券の買い方が乱れて来る。前の晩自宅で血統や調教タイムを綿密に調べ、出遅れや落馬癖の有無、騎手の上手下手、距離の適不適まで勘定に入れて、これならば絶対確実だと出馬表に赤鉛・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・この女が明日は自分以外の男を客に取るのかと、得体の知れない激しい嫉妬が天辰の主人をおろおろさせてしまった。すぐ金を出して、女を天下茶屋のアパートに囲った。一月の間魂が抜けたように毎夜通い、夜通し子供のように女のいいつけに応じている時だけが生・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ほんのちょっとした弾みがつかないのである。得体の知れぬ部屋の悪臭をかぎながら、つまりこれがおれの生活の異臭なんだと、しかしちょっと惹きつけられてみたり、そうかと思うと、それを毎夜なんのあてもなしにそわそわと街へ出掛けて行く口実にしていた。ひ・・・ 織田作之助 「道」
・・・ ところが、仲間でも何でもない得体の知れぬ女が、毎日同じ時刻に、誰と会うわけでもなく、一人でトグロを巻きに来ているのだ。 たしかに眼触りであった。「君何ちゅう名や」 女にはこちらから話し掛けたことのない豹吉だったが、ある日た・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・とにかく君の本体なるものは活きた、成長して行く――そこから芽が吹くとか枝が出るとかいったようなものではなくて、何かしら得体の知れないごろっとした、石とか、木乃伊とか、とにかくそんなような、そしてまったく感応性なんてもののない……そうだ、つま・・・ 葛西善蔵 「遁走」
出典:青空文庫