・・・やがてその子の顔がこちらを向いたので私は微笑みかけました。然し女の児は笑って来ません。然し首を洗われる段になって、眼を向け難くなっても上眼を使って私を見ようとします。しまいには「ウウウ」と云いながらも私の作り笑顔に苦しい上眼を張ろうとします・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・客は微笑みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出でて、傍の椅子に身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく美しき声を送れり。 客はさる省の書記官に、奥村辰弥とて売出しの男、はからぬ病に公の暇を乞い、ようやく本に復したる後の身を養わんとて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・君はこのごろ毎夜狂犬いでて年若き娘をのみ噛むちょううわさをききたまいしやと、妹はなれなれしくわれに問えり、問いの不思議なると問えるさまの唐突なるとにわれはあきれて微笑みぬ。姉はわが顔を見て笑いつ、愚かなることを言うぞと妹の耳を強く引きたり。・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・後の旅人は微笑みて何事もいわざりき。家に帰らば世の人々にも告げて、君が情け深き挙動言い広め、文にも書きとめて後の世の人にも君が名歌わさばやと先の旅客言いたしぬ。情け深き人は微笑みて何事もいわざりき。かくてこの二人は連れだちて途をいそぎぬ。路・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・別荘へは長男の童が朝夕二度の牛乳を運べば、青年いつしかこの童と親しみ、その後は乳屋の主人とも微笑みて物語するようになりぬ。されど物語の種はさまで多からず、牛の事、牛乳の事、花客先のうわさなどに過ぎざりき。牛乳屋の物食う口は牛七匹と人五人のみ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・と手短に答えたが、思わず主人の顔を見て細君はうち微笑みつつ、「どうも大層いいお色におなりなさいましたね、まあ、まるで金太郎のようで。」と真に可笑そうに云った。「そうか。湯が平生に無く熱かったからナ、それで特別に利いたかも知れ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ 婦人は微笑みながら、「まあ、この間から毎日毎日お待ち申していたんですよ」という。「こんな不自由な島ですから、ああはおっしゃってもとうとお出でくださらないのかもしれないと申しまして、しまいにはみんなで気を落していましたのでござい・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 私たちは、きまり悪げに微笑みました。 太宰治 「女の決闘」
・・・ので、ペテロは大あわてにあわて、ああ、ごめんなさい、それならば、私の足だけでなく、手も頭も思う存分に洗って下さい、と平身低頭して頼みいりましたので、私は思わず噴き出してしまい、ほかの弟子たちも、そっと微笑み、なんだか部屋が明るくなったようで・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・最初、お照が髪を梳いて抜毛を丸めて、無雑作に庭に投げ捨て、立ち上るところがありますけれど、あの一行半ばかりの描写で、お照さんの肉体も宿命も、自然に首肯出来ますので、思わず私は微笑みました。庭の苔の描写は、余計のように思われましたけれど、なお・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫