・・・物々しさの代りに心安さがある。 星野温泉行のバスが、千ヶ滝道から右に切れると、どこともなくぷんと強い松の匂いがする。小松のみどりが強烈な日光に照らされて樹脂中の揮発成分を放散するのであろう。この匂いを嗅ぐと、少年時代に遊び歩いた郷里の北・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ それでも永い間の顔馴染になってみれば、やはりそれだけの心安さは出来た。外に客の居ない時などには、適には世間話の一つもする事はあった。 あの大地震に次いで起った火災は、この洋食店の辺も残らず灰にしてしまった。一、二月もたって近辺にぽ・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・二階の一室狭けれども今宵はゆるやかに寝るべしと思えば船中の窮屈さ蒸暑さにくらべて中々に心安かり。浴後の茶漬も快く、窓によれば驟雨沛然としてトタン屋根を伝う点滴の音すゞしく、電燈の光地上にうつりて電車の往きかう音も騒がしからず。こうなれば宿帳・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の叶わばこの黄金、この珠玉の飾りを脱いで窓より下に投・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・つれがなくて一人でいても、それを眺めるか、さもなければいつしか自分もその列のなかにはいりこんで、それぞれ思っていることは別なのだけれども、自分が外国人なのも忘れ、大勢の中に一人いる独特の心安さ、休息のようなものを感じながら、時間がすごせるの・・・ 宮本百合子 「映画」
出典:青空文庫