・・・あのころの事を考えてみると、何だかこう、ぼんやり前の世の事でも考えるようで、はかねえような、変ちきれんな心持になりやがってね――意気地あねえ。」と寂しげに笑った。 銭占屋はそのまま目を閉じて、じっと枕につっ伏した。木賃宿の昼は静かで、階・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・もう健康な時の心持は忘たようで、全く憶出せず、何となく痛に慣んだ形だ。一間ばかりの所を一朝かかって居去って、旧の処へ辛うじて辿着きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、尤も形の徐々壊出した死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活というものを考えていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さっぱり見当が附かないのだよ」「フン、どうして君はそうかな。些とも漠然とした恐怖なんかじゃないんだ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・これを聴いた私は、千尋の絶壁からつき落された心持でした。もうすっかり覚悟しなければ成らなくなりました。ああ仕方がない、もうこの上は何でも欲しがるものを皆やりましょう、そして心残りの無いよう看護してやりましょうと思いました。 此の時分から・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ こんな、便りない、哀れな心持のものがあろうか! 空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆に陥った天才にも似ている! この空想はいつも私を悲しくする。その全き悲しみのために、この結末の妥当であるかどうかということさえ、私にとっては問題ではな・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 十幾本の鉤を凧糸につけて、その根を一本にまとめて、これを栗の木の幹に結び、これでよしと、四郎と二人が思わず星影寒き大空の一方を望んだ時の心持ちはいつまでも忘れる事ができません。 もちろん雁のつれるわけがないので、その後二晩ばかりや・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・この心持はすなわち良い作の生まれる原動力になる。一、よく読書すること。われわれの尊い先人の作をできるだけ熱心に読まねばならぬ。これを怠っては芸術の成長の一つの大きな滋養を失うことになる。いい人のものはたくさん読むだけ良い・・・ 倉田百三 「芸術上の心得」
・・・ 四 お里が家から出て行ったあとで、清吉は、眼をつむって妻の心持を想像してみた。彼には、お里が子供のように思われた。久しく同棲しているうちに、彼は、妻の感覚や感情の動き方が、隅々まで分るような気がした。 妻が見・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ここの細君は今はもう暗雲を一掃されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを心配の代りに得て、大風の吹いた後の心持で、主客の間の茶盆の位置をちょっと直しながら、軽く頭を下げて、「イエもう、業の上の工夫に惚げていたと解りますれば何のこ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・――今度のことでも、お前の母の表面の動作ではなくてその心持の裏に入りこんでみたら、それは只事ではないということはよく分る。だから頼りになりそうな山崎のお母さんと話し込むと、正体がないほど弱くなってしまうの。 窪田が二十日程して釈放さ・・・ 小林多喜二 「母たち」
出典:青空文庫