・・・人の母の生涯というものは、悲が三分一で、後の二分は心配と責苦とであろう。男というものにはそれがちっとも分らぬわいの。(櫃の傍この櫃の隅はまだ尖っているやら。日外、あの子がここで頭を打って血を出した事がある。まだ小さいのに気が荒かったゆえ、走・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・或人はまだ年も若いのに頻りに死という事を気にして、今夜これから眠ったらばあしたの朝は此儘死んでいるのではあるまいかなどと心配して夜も眠らないのがある。そうかと思うと、死という事に就て全く平気な人もある。君も一度は死ぬるのだよ、などとおどかし・・・ 正岡子規 「死後」
・・・父が居ないので母へだけ話したけれども母は心配そうに眼をあげただけで何とも云わなかった。けれどもきっと父はやってくれるだろう。そしたら僕は大きな手帳へ二冊も書いて来て見せよう。五月七日今朝父へ学校からの手紙を渡してそれ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・葉は益々悲しげに震える。心配ではち切れそうになった子供は、両手で番傘の柄を握り、哀れな彼等の上にそれをさしかけた。しっきりなく傘を打って降る雨の音、自分がずぶ濡れになる気持、部屋の中で小さい弟が駈け廻るドタドタいうこもった音。自分も一本草の・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。こういう弱みのある長十郎ではあるが、死を怖れる念は微塵もない。それだからどうぞ殿様に殉死を許して戴こうという願望は、何物の障礙をもこうむらずに・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・その危難にあったことが精密ではないが、薄々は忍藻にも聞えたので、さアそれが忍藻の心配の種になり、母親をつかまえて欝ぎ出すのでそこで前のとおり母親もそれを諭して励ましていた。「門前の小僧は習わぬ経を誦む」鍛冶屋の嫁は次第に鉄の産地を知る。・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・池の鯉はどうしているか、それがまた灸には心配なことであった。「雨こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 暗い外で客と話している俥夫の大きな声がした。間もなく、門口の八つ手の葉が俥の幌で揺り動かされた。俥夫の持った舵棒・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・折ふし徳蔵おじは椽先で、霜に白んだ樅の木の上に、大きな星が二つ三つ光っている寒空をながめて、いつもになく、ひどく心配そうな、いかにも沈んだ顔付をしていましたッけが、いつか僕のいる方を向て、「ナニ、奥さまがナ、えらい遠方へ旅に行しッて、いつま・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・私はただ自分の愛の力の弱らないように、また与えられた物の発育の止まらないように心配していればよい。私の苦しみと愛とで恐らく私の生活の価値は徐々に築かれて行くだろう。 運命を愛せよ。与えられた物を呪うな。生は開展の努力である。生の重点はこ・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫