・・・窶らしい生活が意に満たないで、不満のある度に一々英国公使に訴え、公使がまた一々取次いで外相井侯に苦情を持込むので、テオドラ嬢の父は事毎に外相からの内諭で娘の意を嚮えるに汲々として弱り抜いていたが、欧化心酔の伊井公侯もこれには頗る困らされたそ・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 戯曲ではチェーホフ、ルナアル、ボルトリッシュ、ヴィルドラック、岸田国士などが好きで、殆んど心酔したが、しかし、同じクラスに白崎礼三という詩人がいて、これと仲が良く、下宿も同じにしていたくらいだったから、その感化でランボオやヴァレリーや・・・ 織田作之助 「わが文学修業」
・・・絣の着物の下に純白のフランネルのシャツを着ているのですが、そのシャツが着物の袖口から、一寸ばかり覗き出て、シャツの白さが眼にしみて、いかにも自身が天使のように純潔に思われ、ひとり、うっとり心酔してしまうのでした。修業式のまえの晩、袴と晴着と・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・十五、六歳の頃、佐藤春夫先生と、芥川龍之介先生に心酔しました。十七歳の頃、マルクスとレエニンに心酔しました。(命を賭……ところが、十八歳になると、また『芥川』に逆戻りして、辻潤氏に心酔しました。(太宰って、なあんて張り合いのない野郎だろう。・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・これを見ておもしろがる人々はただ妙技に感心するだけではなくて、やはり影絵のもつ特殊の魅惑に心酔するのである。 これらの原始的の影法師と現在の有声映画には数世紀の隔たりがあるにかかわらず、現在の映画はこのただの影法師から学ぶべきものを多く・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・とにかくこの生まれて始めて味わったコーヒーの香味はすっかり田舎育ちの少年の私を心酔させてしまった。すべてのエキゾティックなものに憧憬をもっていた子供心に、この南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から遠洋を渡って来た一脈の薫風のように感ぜられたも・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・そのころ田舎では珍しかった舶来の彩色石版の美しさにひどく心酔したものであった。われわれはそれを「油絵」と呼んでいたが、ほんとうの油絵というものはもちろんまだ見た事がなかったのである。この版画の油絵はたしかに一つの天啓、未知の世界から使者とし・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・もしたとえば社会の組織制度に関するある理想に心酔して、それがために奪い殺し傷つける事をあえてする団体があるとすれば、どこかそれと共通な点がないでもない。この婦人の行為は利己的である、社会的理想はそんなものと根本的にちがっていると一口に言って・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・西洋の狸から直伝に輸入致した術を催眠法とか唱え、これを応用する連中を先生などと崇めるのは全く西洋心酔の結果で拙などはひそかに慨嘆の至に堪えんくらいのものでげす。何も日本固有の奇術が現に伝っているのに、一も西洋二も西洋と騒がんでもの事でげしょ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 花袋君がカッツェンステッヒに心酔せられた時分、同書を独歩君に見せたら、拵らえものじゃないかと云って通読しなかったと云って、痛く独歩君の眼識に敬服しておられる。花袋君が独歩君に敬服せらるると云う意味を漱石が独歩君に敬服すると云う意味に解・・・ 夏目漱石 「田山花袋君に答う」
出典:青空文庫