・・・ 男爵は、何も知らず、おそろしくいきごんで家へかえり、さて、別にすることもなく、思案の果、家の玄関へ、忙中謝客の貼紙をした。人生の出発は、つねにあまい。まず試みよ。破局の次にも、春は来る。桜の園を取りかえす術なきや。・・・ 太宰治 「花燭」
・・・私は、そんなに多忙な男でもないのである。忙中謝客などという、あざやかなことは永遠に私には、できないと思う。 僕よりもっと偉い作家が、日本にたくさんいるのだから、その人たちのところへ行きなさい。きっと得るところも、甚大であろうと思う、と私・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・思無邪であり、浩然の気であり、涅槃であり天国である。忙中に閑ある余裕の態度であり、死生の境に立って認識をあやまらない心持ちである。「風雅の誠をせめよ」というは、私を去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・然し将来忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機会があれば再び稿を続ぐ積である。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が気が向くときは――余も亦筆を執らねばらぬ。 明治三十八年九月 夏目漱石 「『吾輩は猫である』上篇自序」
・・・「忙中ながら、右御通知まで。小畑 千鶴子」 逆に読みなおしたら、千鶴子の母の死去通知であった。東京に出て僅か二月になるかならぬで死なれた。――はる子は千鶴子を何と不運な人かと思った。彼女の不幸は内と外とからたたまって来るようだ。死ん・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
出典:青空文庫