・・・殊に神崎氏の馬子など、念入りに詫び証文まで取ってみたが、いっこうに浮かぬ気持で、それから四、五日いよいよ荒んでやけ酒をくらったであろうと思われる。そのように私は元来、あの美談の偉人の心懐には少しも感服せず、かえって無頼漢どもに対して大いなる・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・やがて、ゆっくり教壇の方に歩いて、教壇に上り、黒板拭きをとって、黒板の文字を一つ一つ念入りに消す。消しながら、やがて小声で、はる、こうろうの花のえん、めぐるさかずき、影さして、と歌う。舞台すこし暗くなる。斜陽が薄れて来たのである。・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・あの人は、首をかしげて、それから私を縁側の、かっと西日の当る箇所に立たせ、裸身の私をくるくる廻して、なおも念入りに調べていました。あの人は、私のからだのことに就いては、いつでも、細かすぎるほど気をつけてくれます。ずいぶん無口で、けれども、し・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・きょうはまた、念入りに、赤い着物などを召している。私は永遠に敗者なのかも知れない。「いくつになっても、同じだね。自分では、ずいぶん努力しているつもりなのだけれど。」歩きながら、思わず愚痴が出た。「文学って、こんなものかしら。どうも僕は、・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・西洋人の書いた、浮世絵に関する若干の書物のさし絵、それも大部分は安っぽい網目版の複製について、多少の観察をしたのと、展覧会や収集家のうちで少数の本物を少し念入りにながめたくらいのものである。それだけの地盤の上に、それだけの材料でなんらかの考・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・ 道ばたの白樺の樹皮を少しはがしてよく見ると、実に幾層にも幾層にも念入りにいろいろの層が重畳している。これにも何か深い「意味」があるであろうが、この薄層の一枚一枚にしるされた自然の暗号記録はわれわれには容易に読めない。まただれも読もうと・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・年数と干支が全部合理的につじつまを合わせて、念入りに誤植されるという偶然の確率はまず事実上零に近いからである。 それだから年号と年数と干支とを併記して或る特定の年を確実不動に指定するという手堅い方法にはやはりそれだけの長所があるのである・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・は到底引き延ばせるはずがないので、それで、この嫌疑をなるべく濃厚に念入りにするために色々と面倒な複雑なメカニズムが考案されなければならないのである。こういう考案をするのは丁度われわれが何かちょっとした器械でも考案する場合といくらか似たところ・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・それを念入りに調節して器械としての鋭敏さを維持する事はそういうあたまのない女中などには到底望み難い仕事である。私はこのような間に合わせの器械を造る人にも、それを平気で使っている人にも不平を言いたくなるのである。 金網で造った長方形の箱形・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・すると、改札口で切符切りの駅員がきっと特別念入りにその切符を検査するようである。しかし片道切符のときはろくに注意しないでさっさと鋏を入れるように見える。どういうわけか自分にはわからない。それはとにかく、改札係は人間であるがその役目はほとんど・・・ 寺田寅彦 「破片」
出典:青空文庫